十九日は朝からさらに郊外へ出る準備で大忙し。しかし、移動には当座必要な物資の運搬が問題だ。何で運ぶかということになったが、中国語がわかる者もいないので、またしても私に白羽の矢がたった。
さっそく銃に実弾を入れて街へ出たが、街の中は昨日にも増しての大暴動で血まみれの人が右往左往している。
すると血まみれの一人の男の人が近づいてきて
「兵隊さん、駅前の方は大変で、日本人と見れば皆襲撃されます。行かない方がいいです」
と言いながら去って行った。
私も少々困惑した。奉天駅前附近には馬車もたくさんいると思いながらも行けない。あちこち周囲を見るとちょうど四つ角に数台の馬車がいる。さっそく
「馬車を借りたいが来て呉れないか」
と言うと、昨日までとうってかわって語気が荒い。賃金も高くふきかける。しかし負けてはいられない。
「賃金は言う通り、また米でもやる」
後はなんとかなると思って二〇台ばかりの馬車を調達し、連れて帰った。
とりあえず必要な食料、毛布等を積んで出発した。しかし、何処へ行くのかもわからない。何はともあれ郊外へと向かった。途中英国兵の捕虜収容所がある。その横を通る時に所内から彼等の嘲笑を受けた。その時は敗残兵の惨めさをつくづくと味あわされた。
吾々は集団で行動するのでとくに襲撃などはない。だが、戦争に負けた者、とくに女性に降りかかる過酷な運命が待っていた。ソ聯の兵隊は囚人部隊らしくお金や時計、宝石など金目のものはてあたりしだいに略奪。鏡や靴下までむしり取る。そして最後には女性を犯すようになった。若い女性は髪を切り、胸にサラシを巻いて顔にススを塗り男装して難を逃れようとしていたようだ。
こんな状況のなかを郊外へ急いだ。街を抜けるとそこは農村地帯である。道路は地道だ。暑い日中、汗と埃でみな異様な顔つきである。高粱畑の中の道を馬の尻を叩きながら進んだ。夜に入っても休むことはない。夜中にひどい夕立におそわれた。雨具などはない。ずぶぬれだ。馬を追いたてて前進する。道はだんだんと泥沼のようになり、夜中には車輪が半分くらいも埋まって立ち往生となった。満洲の土は乾燥するとコンクリートのようにカチカチとなり、雨が降れば四、五〇cmはどろどろとなるような土質である。
朝から水一滴口にしていないので馬はくたびれて動かなくなる。馬の尻は叩く度に破れて血が吹いている。馬の足は泥に半分くらい埋まって動かない。無理に動かして馬の足が折れて動けない馬車も出る。こうなると畑の高粱を折ってきて車輪の前に敷き、人が車輪をまわして進むしかない。
加えて周囲からは夜襲を受ける。音を出すと銃撃される。高粱畑へ入って銃撃の止むのを待って、また馬車を動かす。腹は減る。だんだんと疲労の度もひどくなる。眠気も来る。
夜明けが来た。周囲の様子がようやくわかってきた。見れば馬車はこわれ、馬は死んで動けない。それらの荷をまた別の馬車へ積み替えて進む。
やっと小さな部落が見えてきたが、満洲では一目二里(八粁m位)はある。何時頃かと空を見れば太陽は頭上に見える。荷物の上から馬を叱咤しながら一昼夜も休むことなく来たようだ。もう皆疲労で話しもしない。車上でいつのまにか眠ってしまい荷物の上から転落するものもいる。
ようやく部落へ到着した。ここで小休止ということになり、やっと食事をする。もうこれ以上遠くへ行くこともない。小休止がとうとう居座りとなった。
考えて見れば八月八日の夜から今までにろくな休養もせず、不眠不休の状態であったので、疲労はかなりのものであった。
この部落は荘老子という村のようだ。さっそくに村長とかけあってとうぶんここにいることとなった。八月二〇日の午後のことであった。
今にして思えばあの馬車に何を与えたか覚えていない。馬は殺され馬車は壊されたいへんだったと思う。吾々兵隊には何もわからなかったが気の毒をしたものだ。
吾々司令部は百二、三十名いたが、それぞれ別れて満人の家に宿を設けた。私は村の入り口に近い所にあった廟に宿をとった。入り口から正面に向かって廟があり、その四方は土塀で囲まれていた。
今までと違って何をすることもない日が続く。
あちこち周囲を回って見ると、近くに関東軍の糧秣廠があった(部隊は七百何部隊とかいった)。そこへ行ってみると倉庫の中にはたくさんの精白高粱や小麦、砂糖、各種缶詰、乾燥野菜などがあったが、米は既に満人に盗まれていてない。缶詰、乾パン、砂糖などがあったのを持てるだけ持って帰り、暇にあかして食べていた。
その中にブリの缶詰があった。それを食べた。戦時中は缶詰も粗製濫造であったらしい。腐敗していたのに気づかず食べてしまい、ひどい食中毒となった。嘔吐、腹痛、下痢、発疹と三日ばかり苦しめられた。その間、満人の燃料である乾草の中に寝て過ごした。誰もみてくれる者もなく、まして薬などもない。ただひたすら動物のように寝ている以外に術もなかった。
四日目、漸く症状も落ちついた。しかし、脱水症状で水が飲みたくなり、飯盒に水を汲みガブガブと飲んだ。すると今度は塩気が欲しくなった。あちこち探して梅干を見つけた。それを飯盒へ一杯持って帰り食べた。腹はすいているし、あまりの美味しさにいっぺんに飯盒一杯を食べてしまった。するとまた水が欲しくなり水を飲む。その後、激しい下痢が襲い、すっかり衰弱してしまった。
六日目くらいになってようやく動けるようになり、隊内をまわって薬を探すが何もない。たまたま近くに自動車隊の者がいたので、その隊の兵隊に頼むと、ザルブロの注射液(一本二〇cc)をくれた。さっそく隊に帰って軍医見習士官に注射してもらった。
少し人心地がついたので近くの満人の家に行った。少々中国語を話すことができたので彼らといろいろ話をした。その家の若夫婦は終戦まで満鉄の鉄道警護隊にいたとのこと。私も満鉄に勤めていたのだと言うとお互い親しさを感じ話しがはずんだ。
この一家は老夫婦と若夫婦、それに子供が一人の家族であった。警護隊にいたので日本語も少しはわかる。
いろいろと話しをしていると急に悪寒がきて寒くて寒くてしかたがなくなった。身体が震え、動けなくなった。しばらく横になっていたがなかなかにおさまらない。日は暮れる。すると老婦人が
「今夜は此処に寝て行きなさい」
と言ってくれた。その夜はそこに寝させてもらった。老婦人は夜中に再三
「具合はどうか」
と声を掛けてくれる。何か母親に出会ったような気がした。
翌朝、老婦人は
「何か食べたいものは無いか、欲しいものを言いなさい。作ってあげるから」
と親切に言ってくれるので、私もすっかりその気になって
「中国料理は大好きなのでなんでも結構です」
と言うと、 「わかった」
と、ニラと卵の料理を作ってくれ朝食を馳走になった。これでようやく人心地もついてお礼を言ってその日は帰った。
帰って特にすることもないので、翌日またその満人の家へ行った。世間話の中で食料の話となった。そのとき私の頭に糧秣廠のことが浮かんだ。それまでに私も一晩看病してもらったお礼をしなければと思案していたところであった。そこでそのことを話しさっそく食料の調達に行くことにした。
ターチャ大車(馬三〜五頭で引く)を用意させ、老人、若夫婦とで糧秣廠へと向かった。二〇〇mくらいまで近づいてみるとたくさんの満人が盗みに来ている。私は小銃に実弾五発を入れて持っていたので、一〇〇mくらいのところで上空へ一〜二発発砲したら皆驚いて一目散に逃げていった。そこでゆっくりと大車二台に精白高粱、小豆、砂糖を積めるだけ積んだ。馬が浮き上がるくらい積みこんで帰った。
その満人の家には地下倉庫があった。それに一杯となり家族は大喜び。五人家族で二年分の食料だと言っていた。アアこれで私もお礼ができたと胸をなで下ろした。すっかり友達となり、そこの老婦人の気に入りとなった。毎日食事に呼ばれた。だが毎日行かれない。すると夕方になると土塀の外で、例の老婦人、料理を持って来て私を待っていてくれる。おかげで好きな中国料理を毎日のように食べることができた。
彼女は私を我が子のように心配してくれて
「お前はこれからどうするか。このままではソ聯に抑留され重労働をさせられる。幸い中国語もできるから私が仕事をかまえてやるから逃げないか」
と言い出した。それまでにもそのことを考えていたので迷いが出た。
しかし当時は何をこんな老婦人にわかるものかといった思いもあった。それでもどんな仕事かと思い聞くと
「お前は中国語ができる。隣の村に私の親戚が国府軍の警察官をしている。それに頼んでやる。警察官にならないか」
と言い出した。中国語ができるといっても自信があるわけでもない。少し待ってくれ、考えて見るからということで別れた。
他日、村の中をあちこち歩いているうちにたまたま村長の家に行き当たった。村長ともなれば吾々に対する対応も良い。昼前であったので昼食を食べないかと言い出し、昼食を馳走になった。言葉が通じるということもあり、ここで軍服と中国服を交換してもらった。
それまでにすでに戦友三人で逃げることにしていた。その夜十二時に逃げ出すことにしていたが、なかなか寝付かれずにいると突然非常呼集が発令。全員本部前へ集合させられた。その頃は未だ司令部の組織そのままであった。高級部員の山口少佐が皆の前で今夜この附近に八路軍(現共産軍)が入ったので充分警戒するようにと指示した。国府軍と中共軍の内戦の始まりである。こんな騒ぎで逃げることを断念せざるをえなかった。
翌日また村長の家へ行って昨日の礼を言い、
「何かお礼をしたいが今の吾々には何もないが、出来ることがあれば」
と申し出たら、村長、おもむろに日本の軍馬は大きい(中国の馬は日本の挽馬より少し小さい)し、良いので「馬が欲しい」と言い出した。
馬といっても吾々は馬を持っていない。思案していると
「今、野外に日本の軍馬が群れをなしている」
と言う。
それではとさっそくその軍馬を捕獲すべく草原に出て見ると、なるほどたくさんの軍馬がいる。私は何年も馬などかまったことがないので(「扱ったことがないので」という意味の方言)、そろそろと声を掛けながら群れの一団に近づいた。逃げるかと思ったら逆に人恋しさか近づいて来る。声をかけると嬉しそうに顔を肩に寄せてくる。簡単に三頭の馬を捕らえて村長の家へ連れ帰った。その時の村長は大喜び。シェシェ
の連発。大変なものだった。さっそく
「日本馬の飼い方を教えて呉れ」 と言われた。多少牛馬の飼い方の心得もあったのでいろいろと教えて帰った。
こんな日々が続いていた。
その間、例の老婦人の話をどうするか考えていた。
九月に入ったらソ聯兵がやってきた。M七〇戦車も入ってきた。キャタピラの高さなど私の身長よりも高い。とにかく大きな戦車だ。こんな大きな戦車は初めて見る。蛸壺を掘って爆雷を持ちこんな戦車に肉薄攻撃することを一生懸命に訓練したのかと思うと無知としかいいようがない。
一緒に来たソ聯兵は皆若い兵隊だ。その中の二、三人は東洋系ではない。長い銃身の銃を持っている。どうも狙撃兵らしい。それが自慢らしく、さかんに物を撃ってみせる。身振り手振りで吾々と射撃の競争をやろうと言っているようだった。そこでそこらに散在する缶詰の空き缶を標的にやってみると、なるほど彼らは実に上手なのである。その腕に驚いた。三階くらいの屋上のスズメでも射落とせると自慢を言って帰った。(ちなみに軍隊では小銃は単弾で、散弾ではない。)
九月九日、ソ聯軍より日本軍は奉天市内の旧満鉄社員研修所(満人社員用)に集合するように命ぜられた。本体はさっそくに研修所へと向かったが、私たち五名(司令部で作戦事務室にいた堀込曹長を長として)ばかりは後始末を命ぜられて残留した。
いよいよ好機到来と逃げることを考えた。翌日午後、軍服姿の下士官が一人ずぶぬれで私たちのところへ助けを求めて来た。様子を聞くと、彼は元開拓団にいたが根こそぎ動員で哈尓浜の部隊へ召集されたらしい。中国語も話せるので哈尓浜から逃げ、鉄道添いに歩いて来た。奉天市内に入ろうとしたが満人に狙われ入ることができず、昨日も今日も満人に追われながら沼地を必死で逃げて来た。ざっとこういう話であった。
満洲に十年以上もいて、言葉も通じるこの人がこんな状態では、吾々もとうてい逃げ切れないのではないかと不安がたかまってきた。彼も思ったよりは満人の態度が厳しいので逃亡は断念した。一緒に連れていって欲しいと、吾々に頼み込んだ。
そこで私も逃げ出すのを断念して、九月十一日残留者数名と一緒に部隊を追って研修所へと入った。
結局、例の老婦人の好意は無視する結果となった。やはり一人となると心細い感があったし、またその前に数人で脱走した隊の者が逃げ切れずに附近をさ迷い、隊に帰ることもできず隠れ歩いていたという情報もあった。それに最終的に日本へ帰ることも考え、国府側の職についたらどうなるかということも先が見えない状況では決断することができなかった。
兎にも角にも集団でいることが一番安全であった。