軍隊生活

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徴兵検査を受けてから半年後、筆者に「赤紙」が来た。昭和19年10月1日鞍山の満洲第五一二部隊へ入隊することになったのである。兵科は砲兵であった。(一部実名を記載しておりますが、奇しくもご本人またはお知り合いの方がご覧になるかもしれないとの思いでそのまま書いておきます。)

関東軍入隊

 いよいよ午後の列車で鞍山へ行かねばならない。

 午前中、彼女と人生最後の別れをすべく二人で竜沙公園に行った。 竜沙公園は市の南東にあり、日中はほとんど満洲人ばかりで日本人は少ない。公園には写真屋がいた。当時一〇銭写真といって、写真を撮るとその場で一〇分ほどでできあがる。公園に来る人々の記念写真を撮っていた。 よく遊びに行った思い出の多い龍沙公園で、二人だけの最後の思い出を残したかった。公園内をあてどなく歩いた。時計を気にしながら一分をおしむ気持ちだった。
 しかし、時は無情に過ぎていく。時間の経つのはほんとうに早い。いよいよ別れる時が来た。 彼女が最後に言った。
 「絶対に死なないで、三年でも五年でも待っています」
  これが最後の言葉だった。 本当に淋しかった。ただただ赤紙一枚が憎い思いであった。しかし、その頃の吾々にはどうする術もなかった。そして、これが二人の永遠の別れとなったのである。
  発車三十分くらい前にようやくホームに入った。既にホームには鉄道局輸送部の人や統計室の人たち、またブラスバンドや舞踊隊の友が四、五十人見送りに来てくれた。 列車を背に挨拶し、別れを惜しむ。そして皆からたくさんの餞別を貰った。あの頃の金で七〇〇円くらいあった。日の丸の旗などは振ることはできなかった。防諜のため社員の転勤といったふうを装った。富沢課長から 「女性の見送りが多い」 とひやかされた。
 彼女はホームの柱の影で泣いていた。その姿が目に残った。

 十月一日八時頃、鞍山駅に到着。
そこでは部隊から軍曹以下二、三人の兵が迎えてくれた。氏名などを照合されて約六〇名ばかりの者が軍曹の引率で部隊に向かった。
 部隊となれば兵舎や練兵場もあると思っていたら、なんと着いた所は鞍山製鉄所本社前の青年研修所であった。そこは四階建ての建物だった。意外だった。一階、二階は照空隊がいて、吾々が入隊する満洲第五一二部隊は四階であった。 入隊して見ればどうやら現役部隊のようだ。しかし、よく見ると体格などもあまりよくない者もいる。どうも第二乙、第三乙等の者が多く、甲種と思われるものは少ない。しかし若い兵隊ばかりであった。
 その日のうちに軍服、下着、靴等を受け取り、銃や帯剣などを渡された。被服係の古兵は言う。 「服の大小は身体を合わせろ、靴も足を合わせろ」 どうやら交換はむつかしいようだ。 銃は二人に一丁、古兵と新兵の組み合わせである。帯剣は各自に支給された。自分が着てきたものは小包として送り返すように指示された。

 部隊は独立の中隊で固有名は独立野戦機関砲第七〇中隊で、通称満洲第五一二部隊である。南満地区防衛司令部の隷下部隊であった。
 

初年兵

 初年兵は本当に休む暇もない忙しさである。南満洲とはいえ十月、十一月ともなれば毎日がマイナス二〇度以下の日が多い。そのうえ洗濯などで水を使うことが多いため赤切れができ、手の甲から血が吹く。その痛いこと。時々古兵の衛生兵から医務室へ行き軟膏をもらって治療するように言われた。
 毎日、二〜三人分(内務班の寝床は初年兵の両側には古年の寝床)の世話をしなければならず、また銃や剣の手入れなどで忙しい(常時、三人分の洗濯や手入れ)。一服のタバコを吸うことなど夢のまた夢だ。会社時代一日三十本も吸っていたのが、ここでは三本のタバコも吸えない。時には便所へ入ってタバコを吸うこともあった。 点呼後に洗濯をしている時、まわりは皆同年兵ばかりだったのでくわえタバコで洗濯をしていた。それを古年兵に見つかり、背後から名前を呼ばれた。(しまった!)と思ったがもうおそい。直立不動と同時にビンタが往復で来た。四〜五回は来た。皆は知らぬ顔で洗濯している。どんなことでやられるかわからない。初年兵のつらいところだ。

 初年兵はいつも「より早く」「より多く」「より正確に」やり抜いて一瞬の油断もしないか、手のつけようのない馬鹿と思われるか、どちらかしかない。後者は前者よりむつかしいかもしれない。
  内務班の嫁いびりに似たものを私は知らない。野外訓練がいかにきびしくても、苦痛も疲労も肉体の次元で事が足りる。「顎が出る」「ひどい疲れ」というが、それは肉体的なもので、内務班での精神的な苦痛屈辱を思えばものの数ではない。
  内務班では古年兵の退屈凌ぎが相変わらずやられている。その種類はいろいろとあるが、そのうちのひとつに「蝉」というのがある。これは班内の柱に登って蝉の鳴き声をするというものだ。柱の中間でミーンミーンと声を張りあげる。柱につかまっていても身体はズルズルと下がる。古年は怒る。 「次は向こうの木だ」 古兵が言う。間髪入れず次の柱へ…。その格好が愉快なので大笑い。
  また「鶯の谷渡り」というのもあった。テーブル兼食卓の長机が並んでいるが、その下を潜り次の机の上を越しながらホーホケキョ、ホーホケキョと鳴く。初年兵は一生懸命だ。その姿が面白いので何時までもやらされる。 苦しいのは「自転車」だ。これは長机を二つ並べてその間に入り、身体を両手でささえ、足は自転車をこぐようにする。しばらくして古兵が 「坂になった、しっかりこぐのだ」 このあたりから腕がだるくなる。そこで 「今度は下り坂だ」 足をペダルにのせた格好でじっとしていなければならぬ。突然に 「上官!」 と言う。敬礼をしなければならぬ。もうその頃になると腕はだるく、ふるえ、やっと支えている状態だ。敬礼となると片手、当然その場へダウン。今度は古兵のビンタが飛ぶ。
  さらに「各班巡り」というのもある。ある時、演習から帰ってみれば寝具がひっくり返されている。(やられた!)と思ってよく見れば敷布がない。さっそく古兵の声が飛ぶ。見れば敷布に赤い白墨で大きく金魚が書いてある。それを僧侶の袈裟のように、金魚を背中にしてかけ、洗面器を頭にのせ、ハタキを僧侶の払子のように持って各班回りをさせられる。班の入り口で 「申告します。何班の○○二等兵、敷布が汚れており各班まわりを命ぜられました」 と大きな声でやらされる。すると古兵が 「そうか、可愛がってやろう」 いきなり洗面器を叩く。洗面器は落ち、大きな音がする。すかさず拾って頭にのせる。その動作がにぶいと何回も叩かれる。その真剣な動作が面白い。
  また「タン壷閣下」というのがあった。内務班には二個のタン壷があり、それには常に水が入れてあった。夜の点呼前には必ず洗って水を入れて置くことになっていた。間違いなく洗って置いたのに、点呼前の忙しいときに古兵がタンをはき込んでおり、それを週番上等兵に見つかりしかられた。そこへ意地悪の古兵がやってきて、タン壷に向かって「タン壷閣下、タン壷閣下」と頭を下げ、その後で中の水を飲めという。なんとも腹立たしいことだが、反抗することは絶対にできず情ない思いをした。
  軍隊というところは「上官の命は直ちに朕(天皇)が命と承れ」ということで、例えば「白いものが黒い」と言われれば「ハイ、黒です」と言うしかない。(白い)と思っていても「白い」とは言えない。 初年兵とは古兵の"オモチャ"のような存在でもある。
  また、入浴は何時も製鋼所の従業員用の大風呂へ二個小隊くらいで行った。その時は三人分下着を持って行く。古兵が下着を脱ぐと、それらをまとめておく。古兵の後から入り、さっそく古兵の背を流す。その後、自分も洗う。それも蛙の行水で汗を流す程度だ。そして先に上がって、古兵が上がって来るのを待ち洗濯した下着を着せる。毎日三人分の洗濯がある。帰ったら点呼までの間に洗濯し、乾燥場へ持って行く。これが連日の日課で、息つく暇もない忙しさである。
  八時には点呼、それが終わると軍人勅諭、戦陣訓等の暗誦をさせられる。また砲兵操典というものも暗誦させられたが、ほとんど皆には負けないくらい覚えていたので、これではあまり叱られることはなかった。

移駐

 寒風の中、着いたところは東満は吉林市よりさらに奥の豊満というところ。兵舎も何もない。見れば大きなダムがある。 聞くところでは東洋一のダムとか。堰堤の長さは約一・一km、直高二〇〇m近い重力式ダムである。昭和十二年に着工し、二十年にはまだ堰堤のコンクリートを打設している。堰堤の直下に発電所がある。満洲電々の発電所だ。既に発電をしており、電気は首都新京へ送電していた。
 発電所には六基の発電機があり、ドイツ製や日本製のものがあった。発電機のシャフトの径は吾々が五人くらい手を繋いでようやく届くくらいの大きさで、立型の発電機である。 このダムの警備のために来たのだ。
 さっそく兵舎の建築に必要な敷地造成だ。毎日凍った土をダイナマイトで爆破しながら造成をやった。敷地ができ、建築隊がやって来て兵舎の建築が始まる。続いて二棟、三棟とさらに造成作業が続いていった。

 同年兵で内田というのがいたが、身体が弱く、毎日の作業に耐えられず、ある日、造成地の陰でこっそり休んでいたのを後藤軍曹に見つかりひどく叱られた。その時かなり体調を崩していたのだろう。まもなく吉林の陸軍病院に入院した。
  一ヶ月も経った頃、建築も大分進んで第三兵舎も素建までできた。その晩、ものすごい風と雪で大荒れとなった。ブリザードだ。夜中、後藤軍曹が厠へ行った。その厠は第一兵舎の横に独立して建っており、兵舎の出口から厠の屋根が見える。その屋根に火の玉が飛んでいた。不気味な感じがして急いで兵舎に帰った。そして、翌日、吉林陸軍病院より内田二等兵が昨夜死亡したとの連絡があった。死亡時刻はちょうど軍曹が厠に行った時刻と一致した。当の後藤軍曹は入院前のことと思い合わせよい気持ちはしないと言っていた。
  いよいよ四月に入った。大地には活力の充ちた春がやってきた。寒かった冬も過ぎ去り、ようやく暖かくなってきた。大地は一年分の生命の増殖を営んでいる。 兵舎もでき、やっと落ち着いた。
 移駐以来対岸にも兵舎が見えるが、この部隊の兵科がわからなかったが、後でそれが大平隊(満洲第四八四部隊)とわかった。 吾々の兄弟部隊であった。左、右岸一個中隊(機関砲部隊)が配置され、さらに発煙隊が一個中隊配置されていた。

 ある夜、指揮班の班長(鷹柳伍長)の個室に呼び出された。それまでの部隊幹部から見た状態から成績もよいし態度もよいという評価があったようで、班長から 「おまえは幹部候補生の試験を受けるだろう」  と問われた。
「自分は旧制中学校は出ていませんので受験しません」
 「そうか、それなら下士官候補生の試験を受けないか?」
 「私は長男でもあり、軍隊で暮らす心算はありません」
  これはしまった。非国民と言われビンタの五〜六回はと覚悟していたら、しばらくして班長は小さな声で 「自分も下士候して下士官になったが、それを今では悔いている。なかなか故郷へ帰れない。自分も長男なのだ。お前の気持ちも判る」 と、自分で自分に言っているようであった。
 こうして下士候も断った。すると今度は 「お前は成績もよいので衛生兵の教育を受けないか」 そこで私は考えた。衛生兵教育は知人の話や面会に斉々哈尓部隊へ行った時に見聞して知っていたので、これもなんとか断った。

 軍隊で暮らす気がないので何から何まで断ってスッキリした気分であった。各種試験もすべて断ったが、軍隊におれば当然昇任しないと常に下積みで苦労が多いことはわかっていた。さらに、当時としては何年軍隊生活が続くかもわからない。 何か虫の知らせというか、そんなものがあったのだろうか、軍隊で暮らすつもりはなかったし、そんな気もしなかった。しかし、こんなに早く日本が負けて軍隊が崩壊するとは思ってもみなかった。同年兵は皆背伸びして下士候した。彼等は毎日特別訓練でしごかれていた。私の方はこれでもう試験や訓練の苦労もない。後はのんびりやるか?と、こんな気持ちになった。
  一期の検閲も終わって、一選抜の進級が行われた。 入隊以来半年、いろいろのことがあったが中隊二番で星二つ、一等兵に進級。さらに成績優秀者に精勤章という赤い山形が与えられるが、これも貰った。精勤章、これも兵隊では鼻の高い賞である。だが、一選抜にもれた者もいる。初年兵のこの時点での成績が軍隊にいる限りついてまわるのだ。次の上等兵進級にも大きく影響する。こうなると古年兵の星二つが目を光らせている。

発煙隊派遣

(筆者は検閲後の短期間に各種の勤務につかされた。最後は部隊の事務室勤務であった。)

 事務室勤務も一段落した頃に他部隊への派遣命令 が出た。豊満に発煙隊があった。派遣先はその部隊(独立の一個中隊)の通信要員ということだった。
 その部隊へ行って見ると、どうも召集兵の老兵ばかり。関特演(昭和十六年の関東軍特別大演習)の居残り部隊だ。隊長はこれも召集の軍曹であり、小隊長も下士候より若い伍長だ。
 行って見て驚いたのは、これでも軍隊かと思うほど気楽なところであったことである。今までは現役部隊にいたので、こんなところもあったのかと感心した。 朝夕の点呼などまったく形式的で、朝食なども食べる者、食べない者と気ままである。飯は余る。片付けも手のあいた者がやる。本当に楽なところだった。

  発煙隊の日課は発煙点の点検である。電線の切断はないか、ニクローム線の切断はないか、またナフタリンの異常はないか、アチコチに点在する発煙点を見て廻ることであった。
 また、治安上の問題もあるので、周辺の民状も合わせて視察のようなこともした。 発煙隊だけでは手が足りないので満人青年の報国隊から数人が小隊に来ていた。彼らの弁当はトウモロコシの荒焼きしたのを団子にして蒸したもの三個(ムスビくらいの大きさ)ほどだけだ。それはどんな味がするか興味があり、また暇つぶしの間食とするため、毎日朝食の余りを飯盒に入れて持って行って交換して食べた。隊長格の青年とよく交換した。それからはよく言うことを聞いて働いてくれた。
 発煙点の点検をかねて附近の満人の家によく行った。中国語も少しは話せるのでいろいろ話していると、彼らの家にソ聯や米国の旗があるのに気付いた。それを聞きただすと、 「日本は負ける」 と言う。戦局がよくないことはわかっていた。しかし私らは日本が負けるなどとは思ってもいなかった。何を馬鹿なことを言うかと反論した。
 しかし、考えてみれば、彼等は昔から為政者が常に変わる。その経験からやはり先見の明があったのかと感心した。吾々は新聞など見ることもなくまったく目隠し状態であったのだ。

 発煙点がダム下流の川の中にあった。その筏の中に体長五〇〜六〇cmの魚がよくひっかかっていた。それを持って帰って刺身にしたり、あるいは焼いたりしては昼食のオカズにした。また堰堤の直下では魚のチョンガケなどもやって大きなナマズをよくとった。
 発電所の放水管の出口は水の勢いが強い。ここでも魚がとれた。落水に打たれ底に潜ることができず途中でフラフラしているのをひっかけてとるのである。
 毎日がこんな調子で軍隊を忘れるようであった。こんなところならマア一年や二年居てもいいなと思っていたら、原隊復帰の命令が来た。わずか一ヶ月たらずでまた原隊での忙しい日に逆戻りかとウンザリした。

南満地区防衛司令部へ派遣

 原隊へ復帰し、帰隊の申告を済まして一〜二日が経った。
 南満の奉天市にある南満地区防衛司令部(ここは吾々の部隊の本家である!)へ通信要員として派遣という命令を受け取った。 昭和二十年五月二十日豊満の原隊を出発。二十一日に奉天(現瀋陽市)に到着。市内の朝日街に元北の軍閥馬占山将軍がいたという建物があった。これが南満地区防衛司令部であった。

司令部は
司令官   陸軍少将 津田賜という人でかなりの年齢(六〇歳前と思われた)であった。(出身は島根県荘原村とのこと)
高級部員  陸軍少佐 山口という人。
陸軍大尉 古川という人。陸士出身の若い人(二七歳位)
陸軍大尉(副官) この人は兵隊上がりのようであった。
陸軍中尉 藤村という人。召集。女学校の教師。
陸軍中尉(経理) 吉岡という人。
陸軍少尉  高橋、服部、柴田(甲幹上がり)氏ら
陸軍准尉 浜田という人。山口県出身。
陸軍曹長 堀込という人。
陸軍軍曹・伍長 数名。
兵    一〇〇〜一三〇名くらい。
 このような編成であった。隷下部隊は、高射砲、機関砲、照空隊、発煙隊といろいろとあった。

 五月末頃からは戦局も末期症状を呈し、ドイツも五月には敗れた。
 日本もいよいよ本土決戦という時期で、満洲の部隊はどんどんと南方や内地へと送り出された。今まで無敵の関東軍と言われていた部隊も日に日に弱体化していった。その穴埋めに現地召集となり、毎日がその動員計画の作成ばかりであった。その頃根こそぎ動員という言葉さえ出るくらいであった。四〇歳くらいまでの男子は皆召集の対象になった。そのため、敗戦(日本では終戦といった)の日まで入隊者が出た。
 二十年五、六月頃日本から来る兵隊の装備はじつに貧弱なものであった。銃は荒削りの九九式、剣の中身は竹光、水筒は竹筒、靴は地下足袋といった装束の部隊で、こんなことではと思われた。
 一方、満洲の部隊も兵器の大半を南方や内地に送り、残ったのは三分の一程度の兵器だ。これではまったく張子の虎だ。兵隊は未教育兵の集団に過ぎない。
 こんな有様だから一九年頃からは毎日の訓練も肉弾戦の訓練ばかり。これが世界の陸軍国といわれたソ聯に対しての対応であった。 なにぶんソ聯は大きな戦車を大量にもっているので、必然的に対戦車訓練が多くなった。その訓練とは、蛸壺を掘り、その中に亀の子爆雷をもった兵がひとり入る。進行して来る戦車の死角に入ったら、亀の子爆雷を差し出す。爆雷で戦車のキャタピラを破壊して動けなくなったところを叩き潰すという作戦であった。

 昭和二十年八月八日夜から九日未明にかけ、ワシレフスキー元帥率いる極東ソ聯軍(司令部ハバロフスク)は降雨断続するなか、大興安嶺附近を除いて東、西、北の方面より旧満洲へ奔流の如く侵略した。
 その軍事力たるや兵員百五十七万、火砲、迫撃砲、二六、一三七門、戦車・自走砲五、五五六輌、飛行機三、四四六機等々。
 対する我が関東軍兵員七〇万、兵員数こそ開戦時とほぼ同じだが「根こそぎ動員」による未教育兵ばかり、そのうえ銃剣もない丸腰の兵が三分の二もいるという「水ぶくれ部隊」であった。

 ソ聯軍は各方面から一斉に入った。司令部ではその日から日夜の区別なく隷下部隊である高射砲、高射機関砲、照空隊等に対し展開命令を出すのに大忙しとなった。奉天市の防衛に高射砲の配置、照空隊の配置、ひっきりなしに隷下部隊からの連絡、将校、下士官の出入りがあった。八月十四日まではほとんど徹夜の連続であったがいっこうに眠いとは思わなかった。
 八月六日、広島に原爆が投下された。そのことを新聞で見て、これは大変なことになったと思った。しかし、その時記事では原子爆弾などとは書いてなく、ただ新型爆弾ということであった。私たちは強力な破壊力がある爆弾くらいのものに思っていた。満洲辺りではそんな程度であった。
 八月九日未明から各方面からの情報が入ってくる。奉天(現瀋陽)市は南満の中核都市でもあり、重要な町である。その中枢部にある吾々の南満地区防衛司令部には無電による戦況の情報が刻々と入ってくる。それによって奉天防衛の方法を考え、隷下部隊の配置を命令しなければならない。
 九日の朝、司令官(陸軍少将津田賜)から部隊全員に対して訓示があった。 「本日唯今より皆の命を国家の為、天皇の為にわしに授けて呉れ」 ――― 愈愈二十二歳を最後に此の世との別れか と思った。 だが、そんな気持ちと裏腹に「俺だけは死ぬものか」といった気持ちもあった。それも司令部といった所で直接戦闘をしなかったのでよけいにそんな気持ちが働いたのだろう? 九日早朝より十五日午前中まで本当に不眠不休で作戦事務室での勤務が続いた。

 ちょうど十三日の夜は無線室勤務となり、地下の無線室にいた。
 すると夜に暗号電報が入ったきた。当然乱数暗号である。四桁並びの数字で、我々にはチンプンカンプンで何もわからない。さっそく暗号班に持っていき解読してもらった。それは関東軍司令部からのもので戦闘行動を停止せよという内容であった。一瞬誤読かと思った。いやスパイの行為か? そんなことはないだろう。だが、その頃は関東軍首脳は右往左往していた。
 一方、奉天市内は大変なことで、道路には戦車濠が掘られ、ロータリーには高射砲を据えて、対空射撃ではなく対戦車砲かわりに使おうとする。先ず命中率は一〇〇%である。司令部の周囲にも深さ三m、巾五〜六mの戦車濠が昼夜を問わず掘られた。
 八月十四日夜中には日本語の生文で"一切の戦闘行動を停止すべし"と関東軍司令官山口乙三名で入ってくるようになった。 司令官室に電報を持って行くと、電報を見てコブシを握りブルブルと震えて実にくやしそうな様子。言葉も出ずにひきさがった。

終戦

 八月十五日正午、天皇の玉音放送(当時はこのようにいった)があることもわかり、ラジオの調整をして正午を待った。
 当時のラジオはあまり良くなく、雑音が多く音声も明瞭でなかった。いよいよ正午、司令官以下全員一装用(戦場へ行くときの服装)に着替え、庁舎前の広場へ整列、放送を待った。
  この日は真夏の太陽がカンカン照り、気温は三五度くらいもあった。立っているだけで汗が流れる。いよいよ正午、天皇の詔勅が朗読される。司令官を見れば軍服の背中からポタポタと汗が流れ出る。吾々は帯剣しているので汗が軍服を通し背中は水を浴びたようであった。
 神州不滅と教育されてきた吾々には、戦争が終わったということと、さらには負けたということ、これから先どうなるのかという思い、さまざまな思いが複雑に渦を巻き、頭の中は真っ白。ただ呆然とした状態であった。

 その晩からは満軍の叛乱、民間人の抗日暴動と昼夜を問わず日本人を襲う悲惨な状況となった。今までの日本人対満洲人の立場が逆転したのだ。掠奪、殺害が横行し、日本人は今まで住んでいた住宅を追い出され、路頭に寝起きする有様で悲惨をきわめた。
 司令部内部でも不穏な動きが始まった。今までは階級によって統率されていたのが崩れ始めた。六〜七年も下積みの一等兵でいた連中には元暴力団組員らしいのがいた。その連中が先導し、兵器庫から拳銃などを盗んで下士官、将校に対して今までの腹いせが始まった。

 八月一八日、ソ聯軍が奉天に入った。その日のうちに日本軍は全部郊外へ移動するように命令され、また、その時に武装解除が始まった。銃や帯剣は全部一箇所へ集積。今まで命よりも大切に取り扱った兵器をゴミのように捨てる姿は本当に情けない。何ものにもたとえようのない気持ちだった。それでも四〜五丁の小銃や帯剣を装具の中に隠していた。
 いよいよ十九日朝から郊外に出ることになった。郊外に近い所に長沼公園というのがあり、その近くに小学校があった。とりあえずそこの小学校の校舎へと移動した。
 前日の一八日、経理の吉岡中尉から 「お前は在満入隊でもあり、奉天の地理もまた中国語も解るので、司令部内の皆の郵便貯金を野戦郵便局まで出しに行って呉れ」 という命を受けた。 一人というのはいささか心細い思いも少しはあったが、とくに恐いとは思わなかった。
 三八銃と実弾十五発くらいを持って街へ出たが、市内は想像以上の混乱だ。あちこち日本人らしき人々が現地人の襲撃を受け血まみれで右往左往している。これで野戦郵便局へ行けるだろうかと思いながら、銃に弾丸五発を詰めて安全装置を外して急いだ。だが、不思議に襲撃は受けなかった。軍服に銃を持っていたので逆に襲撃されなかったのか?
 郵便局より現金を受け取り、袋に入れて背負って帰路についた。中身は新札で日本円の十円紙幣だ。フトここでこのまま逃げようかと思って、鉄道総局の友達を訪ねた。ところがここも職員はほとんどおらず、出会った職員にいろいろと聞いたが誰がどうなったかまったくわからず、探すこともできない。しかたなく再び司令部へ帰った。 そして貯金の分配がされた。私の貯金は七百円くらいもあった。新札の十円札だ。仮にこのまま日本に帰っても七百円あれば当座は大丈夫と思った。

放浪

 十九日は朝からさらに郊外へ出る準備で大忙し。しかし、移動には当座必要な物資の運搬が問題だ。何で運ぶかということになったが、中国語がわかる者もいないので、またしても私に白羽の矢がたった。
 さっそく銃に実弾を入れて街へ出たが、街の中は昨日にも増しての大暴動で血まみれの人が右往左往している。 すると血まみれの一人の男の人が近づいてきて 「兵隊さん、駅前の方は大変で、日本人と見れば皆襲撃されます。行かない方がいいです」 と言いながら去って行った。
  私も少々困惑した。奉天駅前附近には馬車もたくさんいると思いながらも行けない。あちこち周囲を見るとちょうど四つ角に数台の馬車がいる。さっそく 「馬車を借りたいが来て呉れないか」 と言うと、昨日までとうってかわって語気が荒い。賃金も高くふきかける。しかし負けてはいられない。 「賃金は言う通り、また米でもやる」 後はなんとかなると思って二〇台ばかりの馬車を調達し、連れて帰った。
 とりあえず必要な食料、毛布等を積んで出発した。しかし、何処へ行くのかもわからない。何はともあれ郊外へと向かった。途中英国兵の捕虜収容所がある。その横を通る時に所内から彼等の嘲笑を受けた。その時は敗残兵の惨めさをつくづくと味あわされた。
 吾々は集団で行動するのでとくに襲撃などはない。だが、戦争に負けた者、とくに女性に降りかかる過酷な運命が待っていた。ソ聯の兵隊は囚人部隊らしくお金や時計、宝石など金目のものはてあたりしだいに略奪。鏡や靴下までむしり取る。そして最後には女性を犯すようになった。若い女性は髪を切り、胸にサラシを巻いて顔にススを塗り男装して難を逃れようとしていたようだ。

 こんな状況のなかを郊外へ急いだ。街を抜けるとそこは農村地帯である。道路は地道だ。暑い日中、汗と埃でみな異様な顔つきである。高粱畑の中の道を馬の尻を叩きながら進んだ。夜に入っても休むことはない。夜中にひどい夕立におそわれた。雨具などはない。ずぶぬれだ。馬を追いたてて前進する。道はだんだんと泥沼のようになり、夜中には車輪が半分くらいも埋まって立ち往生となった。満洲の土は乾燥するとコンクリートのようにカチカチとなり、雨が降れば四、五〇cmはどろどろとなるような土質である。
 朝から水一滴口にしていないので馬はくたびれて動かなくなる。馬の尻は叩く度に破れて血が吹いている。馬の足は泥に半分くらい埋まって動かない。無理に動かして馬の足が折れて動けない馬車も出る。こうなると畑の高粱を折ってきて車輪の前に敷き、人が車輪をまわして進むしかない。
 加えて周囲からは夜襲を受ける。音を出すと銃撃される。高粱畑へ入って銃撃の止むのを待って、また馬車を動かす。腹は減る。だんだんと疲労の度もひどくなる。眠気も来る。
 夜明けが来た。周囲の様子がようやくわかってきた。見れば馬車はこわれ、馬は死んで動けない。それらの荷をまた別の馬車へ積み替えて進む。 やっと小さな部落が見えてきたが、満洲では一目二里(八粁m位)はある。何時頃かと空を見れば太陽は頭上に見える。荷物の上から馬を叱咤しながら一昼夜も休むことなく来たようだ。もう皆疲労で話しもしない。車上でいつのまにか眠ってしまい荷物の上から転落するものもいる。

 ようやく部落へ到着した。ここで小休止ということになり、やっと食事をする。もうこれ以上遠くへ行くこともない。小休止がとうとう居座りとなった。 考えて見れば八月八日の夜から今までにろくな休養もせず、不眠不休の状態であったので、疲労はかなりのものであった。
 この部落は荘老子という村のようだ。さっそくに村長とかけあってとうぶんここにいることとなった。八月二〇日の午後のことであった。 今にして思えばあの馬車に何を与えたか覚えていない。馬は殺され馬車は壊されたいへんだったと思う。吾々兵隊には何もわからなかったが気の毒をしたものだ。
 吾々司令部は百二、三十名いたが、それぞれ別れて満人の家に宿を設けた。私は村の入り口に近い所にあった廟に宿をとった。入り口から正面に向かって廟があり、その四方は土塀で囲まれていた。 今までと違って何をすることもない日が続く。
 あちこち周囲を回って見ると、近くに関東軍の糧秣廠があった(部隊は七百何部隊とかいった)。そこへ行ってみると倉庫の中にはたくさんの精白高粱や小麦、砂糖、各種缶詰、乾燥野菜などがあったが、米は既に満人に盗まれていてない。缶詰、乾パン、砂糖などがあったのを持てるだけ持って帰り、暇にあかして食べていた。
 その中にブリの缶詰があった。それを食べた。戦時中は缶詰も粗製濫造であったらしい。腐敗していたのに気づかず食べてしまい、ひどい食中毒となった。嘔吐、腹痛、下痢、発疹と三日ばかり苦しめられた。その間、満人の燃料である乾草の中に寝て過ごした。誰もみてくれる者もなく、まして薬などもない。ただひたすら動物のように寝ている以外に術もなかった。
 四日目、漸く症状も落ちついた。しかし、脱水症状で水が飲みたくなり、飯盒に水を汲みガブガブと飲んだ。すると今度は塩気が欲しくなった。あちこち探して梅干を見つけた。それを飯盒へ一杯持って帰り食べた。腹はすいているし、あまりの美味しさにいっぺんに飯盒一杯を食べてしまった。するとまた水が欲しくなり水を飲む。その後、激しい下痢が襲い、すっかり衰弱してしまった。
 六日目くらいになってようやく動けるようになり、隊内をまわって薬を探すが何もない。たまたま近くに自動車隊の者がいたので、その隊の兵隊に頼むと、ザルブロの注射液(一本二〇cc)をくれた。さっそく隊に帰って軍医見習士官に注射してもらった。

 少し人心地がついたので近くの満人の家に行った。少々中国語を話すことができたので彼らといろいろ話をした。その家の若夫婦は終戦まで満鉄の鉄道警護隊にいたとのこと。私も満鉄に勤めていたのだと言うとお互い親しさを感じ話しがはずんだ。 この一家は老夫婦と若夫婦、それに子供が一人の家族であった。警護隊にいたので日本語も少しはわかる。
 いろいろと話しをしていると急に悪寒がきて寒くて寒くてしかたがなくなった。身体が震え、動けなくなった。しばらく横になっていたがなかなかにおさまらない。日は暮れる。すると老婦人が 「今夜は此処に寝て行きなさい」 と言ってくれた。その夜はそこに寝させてもらった。老婦人は夜中に再三 「具合はどうか」 と声を掛けてくれる。何か母親に出会ったような気がした。
 翌朝、老婦人は 「何か食べたいものは無いか、欲しいものを言いなさい。作ってあげるから」 と親切に言ってくれるので、私もすっかりその気になって 「中国料理は大好きなのでなんでも結構です」 と言うと、 「わかった」 と、ニラと卵の料理を作ってくれ朝食を馳走になった。これでようやく人心地もついてお礼を言ってその日は帰った。
 帰って特にすることもないので、翌日またその満人の家へ行った。世間話の中で食料の話となった。そのとき私の頭に糧秣廠のことが浮かんだ。それまでに私も一晩看病してもらったお礼をしなければと思案していたところであった。そこでそのことを話しさっそく食料の調達に行くことにした。
 ターチャ大車(馬三〜五頭で引く)を用意させ、老人、若夫婦とで糧秣廠へと向かった。二〇〇mくらいまで近づいてみるとたくさんの満人が盗みに来ている。私は小銃に実弾五発を入れて持っていたので、一〇〇mくらいのところで上空へ一〜二発発砲したら皆驚いて一目散に逃げていった。そこでゆっくりと大車二台に精白高粱、小豆、砂糖を積めるだけ積んだ。馬が浮き上がるくらい積みこんで帰った。
 その満人の家には地下倉庫があった。それに一杯となり家族は大喜び。五人家族で二年分の食料だと言っていた。アアこれで私もお礼ができたと胸をなで下ろした。すっかり友達となり、そこの老婦人の気に入りとなった。毎日食事に呼ばれた。だが毎日行かれない。すると夕方になると土塀の外で、例の老婦人、料理を持って来て私を待っていてくれる。おかげで好きな中国料理を毎日のように食べることができた。
 彼女は私を我が子のように心配してくれて 「お前はこれからどうするか。このままではソ聯に抑留され重労働をさせられる。幸い中国語もできるから私が仕事をかまえてやるから逃げないか」 と言い出した。それまでにもそのことを考えていたので迷いが出た。 しかし当時は何をこんな老婦人にわかるものかといった思いもあった。それでもどんな仕事かと思い聞くと 「お前は中国語ができる。隣の村に私の親戚が国府軍の警察官をしている。それに頼んでやる。警察官にならないか」 と言い出した。中国語ができるといっても自信があるわけでもない。少し待ってくれ、考えて見るからということで別れた。

 他日、村の中をあちこち歩いているうちにたまたま村長の家に行き当たった。村長ともなれば吾々に対する対応も良い。昼前であったので昼食を食べないかと言い出し、昼食を馳走になった。言葉が通じるということもあり、ここで軍服と中国服を交換してもらった。 それまでにすでに戦友三人で逃げることにしていた。その夜十二時に逃げ出すことにしていたが、なかなか寝付かれずにいると突然非常呼集が発令。全員本部前へ集合させられた。その頃は未だ司令部の組織そのままであった。高級部員の山口少佐が皆の前で今夜この附近に八路軍(現共産軍)が入ったので充分警戒するようにと指示した。国府軍と中共軍の内戦の始まりである。こんな騒ぎで逃げることを断念せざるをえなかった。
 翌日また村長の家へ行って昨日の礼を言い、 「何かお礼をしたいが今の吾々には何もないが、出来ることがあれば」 と申し出たら、村長、おもむろに日本の軍馬は大きい(中国の馬は日本の挽馬より少し小さい)し、良いので「馬が欲しい」と言い出した。 馬といっても吾々は馬を持っていない。思案していると 「今、野外に日本の軍馬が群れをなしている」 と言う。
 それではとさっそくその軍馬を捕獲すべく草原に出て見ると、なるほどたくさんの軍馬がいる。私は何年も馬などかまったことがないので(「扱ったことがないので」という意味の方言)、そろそろと声を掛けながら群れの一団に近づいた。逃げるかと思ったら逆に人恋しさか近づいて来る。声をかけると嬉しそうに顔を肩に寄せてくる。簡単に三頭の馬を捕らえて村長の家へ連れ帰った。その時の村長は大喜び。シェシェ の連発。大変なものだった。さっそく 「日本馬の飼い方を教えて呉れ」  と言われた。多少牛馬の飼い方の心得もあったのでいろいろと教えて帰った。 こんな日々が続いていた。
 その間、例の老婦人の話をどうするか考えていた。

 九月に入ったらソ聯兵がやってきた。M七〇戦車も入ってきた。キャタピラの高さなど私の身長よりも高い。とにかく大きな戦車だ。こんな大きな戦車は初めて見る。蛸壺を掘って爆雷を持ちこんな戦車に肉薄攻撃することを一生懸命に訓練したのかと思うと無知としかいいようがない。
 一緒に来たソ聯兵は皆若い兵隊だ。その中の二、三人は東洋系ではない。長い銃身の銃を持っている。どうも狙撃兵らしい。それが自慢らしく、さかんに物を撃ってみせる。身振り手振りで吾々と射撃の競争をやろうと言っているようだった。そこでそこらに散在する缶詰の空き缶を標的にやってみると、なるほど彼らは実に上手なのである。その腕に驚いた。三階くらいの屋上のスズメでも射落とせると自慢を言って帰った。(ちなみに軍隊では小銃は単弾で、散弾ではない。)

 九月九日、ソ聯軍より日本軍は奉天市内の旧満鉄社員研修所(満人社員用)に集合するように命ぜられた。本体はさっそくに研修所へと向かったが、私たち五名(司令部で作戦事務室にいた堀込曹長を長として)ばかりは後始末を命ぜられて残留した。
 いよいよ好機到来と逃げることを考えた。翌日午後、軍服姿の下士官が一人ずぶぬれで私たちのところへ助けを求めて来た。様子を聞くと、彼は元開拓団にいたが根こそぎ動員で哈尓浜の部隊へ召集されたらしい。中国語も話せるので哈尓浜から逃げ、鉄道添いに歩いて来た。奉天市内に入ろうとしたが満人に狙われ入ることができず、昨日も今日も満人に追われながら沼地を必死で逃げて来た。ざっとこういう話であった。
  満洲に十年以上もいて、言葉も通じるこの人がこんな状態では、吾々もとうてい逃げ切れないのではないかと不安がたかまってきた。彼も思ったよりは満人の態度が厳しいので逃亡は断念した。一緒に連れていって欲しいと、吾々に頼み込んだ。 そこで私も逃げ出すのを断念して、九月十一日残留者数名と一緒に部隊を追って研修所へと入った。
 結局、例の老婦人の好意は無視する結果となった。やはり一人となると心細い感があったし、またその前に数人で脱走した隊の者が逃げ切れずに附近をさ迷い、隊に帰ることもできず隠れ歩いていたという情報もあった。それに最終的に日本へ帰ることも考え、国府側の職についたらどうなるかということも先が見えない状況では決断することができなかった。 兎にも角にも集団でいることが一番安全であった。

 

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