想えば二十年八月十五日、敗戦の日以来、幾多の苦難を乗り越え今日まで生きのびた。その苦しかった数々の想い出が脳裏をかけめぐる。しかし、その反面、本当に帰国できるか? 未だ不安もあった。今まで"トウキョウダモイ"に騙され続けてきた私だったから。
しかし"ダモイ"が決まってからは作業もなく、帰国の準備をした。
今まで貯金をしてあった金を全部吾々にくれた。しかし、その金は皆で稼いだものだから小隊全員に平等に配分した。かなりの金額となった。だが金は持ち帰ることはできないので、ここで使うしかない。二、三日の間に千ルーブル余りの金を使うとなればけっこう大変である。何に使うか考えたが、これといった案もないままジャンバー、帽子(ハンチング)、靴、シャツなどを買った。しかし、こんなことではとうてい使い切れない。そこでタバコも最高級品のパヒロースイ(一箱五十本入)を買い、またパンも普段は黒パンだが白パンを買い腹一杯食べた。
こうして帰国の準備をした。中には俺は内地では一升株の酒飲みと豪語しウォッカを一リットルも飲んでそのまま翌朝までに天国へ行った可愛そうな人もいた。
ドイツ人のなかでも炭鉱にいた連中はかなりの金額を持っていたので、オートバイ(一台二五〇〇ルーブル)を買って帰る者もいた。(当時ドイツは東西に分かれていて、東へ帰る者のようだった。)乗用車一台六〇〇〇ルーブルくらいであったと思う。私たちのノルマ100%で日当一一ルーブルくらいの時である。
金銭や書いた物、あるいは危険物(ナイフ、鋏等)はいっさい持ち帰ることはできない。全部没収された。(十月十二日)
こうしていよいよ帰国第一歩となった。昼間、駅に入っている貨車に一車七〇名くらいずつ乗せられた。貨車は真中から左右二段に仕切られていた。これが寝台だ。カンナ屑の入ったフトン袋が敷いてあった。シベリアの十月はもう寒い。夜は零度以下となる。皆着の身着のままで寝起きする。狭いところで皆がくっついて寝るので割合に暖かい。カラカンダを出発したのは夜中であった。朝、汽車は太陽に向かって走る。入ソの時とは逆である。貨車は常に施錠され、食事の時の停車以外は外を見ることもできない。上段に三〇cm角の小窓があるが、ここから外を見ることができるのみである。
小窓から見るシベリアの大地は広い。走れども走れどもキャベツ畑、また馬鈴薯畑。これが何kmも続く。実に広い。これがシベリアなのか。日本の二七倍。日本の一〇〇mはシベリアの二.七kmに相当する。そこにできた野菜はどうして収穫するのだろうか。我々には想像もつかない。そんなことを想いながら小窓から外を見ていた。
時速六〇kmくらいで走り続ける。五、六日走ったところで全員下車。一日がかりで入浴となった。そこはイルクーツクであった。大きなシャワー室があり、一回の入浴で一〇〇名くらいずつ入った。ここではお湯も使いたいだけ使えた。
またその夜から汽車は走り続ける。十月二十八日、ようやくナホトカに着いた。
ナホトカには収容所が第一、第二、第三、第四分所とあった。第一分所はナホトカ到着後初めて入る収容所である。ここで人員点呼、入浴、減菌消毒等を受ける。第二分所では被服の点検、支給等、帰国準備がされた。印刷物や書いた物、危険物(ナイフ等)はいっさい持ち帰ることはできず、全部没収された。そして第三分所へ進む。ここで輸送梯団の編成をし、乗船待機となる。ところが吾々は第二分所で停まった。毎日ナホトカの街へ作業に出された。疑心暗鬼となり、何時帰国できるか不安の日々だった。
十月二十八日に日本の船が出航した。二、三日もすれば次の船が入って来ると思ったが、どうして五日経っても十日経っても日本の船は入港しない。毎日作業場の高台から港を見るが、一向に船の入る気配はない。こうなると逆送されるのではないか、と不安が募る。一日一日が不安の連続であった。これまでに逆送されたこともあったという噂もあり、そうなると仕事なんかどうでもよい、ひたすら帰国を願うばかりであった。
第二分所では毎夜委員会によって反動分子のレッテルを貼られた旧特高連中が自己批判という名目の吊し上げを受ける。大衆の前で土下座をしている姿を見てあまりよい気分にはなれなかった。委員会のメンバーはと見れば得意顔である。同じ日本人同士でありながらここまでしなければならないのかといった気もした。
話はもどるが、帰国するためには一度は共産主義思想の教育を受けなければならない。毎夜、仕事から帰って、夜三時間ずつ一ヶ月の研修を受けなければ帰国させないと委員会からの命令があった。当時は委員会に反動分子とレッテルをはられたら帰国者名簿から除外されるということであった。そうなると今までの苦労も水泡に帰す。試験があるではなし、一ヶ月の研修を受けることにした。
先生は旧京都大学の経済学部卒業生の兵隊だった者。こんな人からマルクス・レーニン主義による理論武装と労働価値論、賃金論、資本論、貨幣論等々難解な講義を受けること一ヶ月。ここで偽装ダモイ民主主義者となった。
それでもなお「日和見主義者」といった色眼鏡で見られた。
この民主運動は収容所の中、いわば一般社会から隔絶された運動であり、運動の展開がいかにも性急であった。