シベリア抑留2

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シベリア抑留はいつ終わるのだろうか。先の見えない日々が続くが、抑留生活にも慣れてきた筆者の生活にもいろいろな出来事が起こる。

演劇部

 一九四七年に入っても帰国の話はまったくない。またしても収容所を変えられた。今度はドイツ人の収容所で日本人と半々くらいいる収容所だ。
 この頃から民主運動が盛んになり始めた。ここにはドイツ人、日本人の民主委員会があり、日々締め付けがひどくなる。ちょっとでも下手な言動をするとさっそく反動呼ばわりされ、大衆の前で自己批判をさせられるようになった。

 これはヤバイ。「窮鳥懐に入れば猟師も之を撃たず」。委員会に近づくことも一つの手と考えた。当時委員会にはいろいろと部があり、手っ取り早いのは文化工作隊というのに入ることだった。文化工作隊には演劇部と音楽部があった。私も以前満鉄に勤務していた頃、斉々哈尓鉄道局のブラスバンドにいて、フリュート、ピッコロの吹奏をした経験があるので音楽部と思ったが、フリュート等はないので演劇部へ入った。
 しかし、組織はあっても楽器や衣装などは何もないので、それらはすべて手作りである。ギター、バイオリン、ドラムなどをそこらの板切れで作った。演劇に使う衣装も藁布団の袋、カーテンの白布を使い製作した。カツラもいろいろと工夫してつくり、買ったものはいっさいなかった。こうして月に一回ずつ演奏会や演芸会をやった。一日は日本人、一日はドイツ人といった具合に交互に開催した。文化工作隊に入ったことについてはもう一つ裏の狙いもあった。それは週三回ほど夜に練習がある。それに行くと終わった後夜食が食べられるのである。これも大きな魅力であった。
 ドイツ人の演劇部とよく一緒に練習した。日が経つにつれて友達もできる。月一回の公演を交替でやった。私はいつも女形であった。相手役は元軍曹でラッパ長をしていたというAという人だった。彼は色白で、身体いっぱいに入墨を入れており、浅草で少しは名の売れた遊び人であったとか。ドイツ人からは彼は俳優ではないかといわれていた。そんな彼と恋愛劇をやった。私は芸者、彼は若旦那。添えぬ仲の別れの恋しい場面を演じた。その夜は日・独合同の観劇である。その劇がドイツ人にすごくうけた。以来、一段と仲良くなった。
 特に炊事係りの長をしていたヨーゾフというのに気に入られて、ドイツ料理をよく食べさせてくれた。ドイツ人は口ぐせのように「富士山、芸者」と言っていたので、芸者を演じた私はドイツ人に大変もてた。こうして一年ばかり、日、独、同じ収容所での生活が続いた。
 既に抑留も三年目に入った。依然として帰国の話はない。春にソ聯ではデノミが行われた。その頃ルーブルを三〇〇ルーブルくらい持っていたが、銀行に行くことはできない。困った。フト思いついたのはドイツ人のヨーゾフに頼もうということだった。このあたりには、第一次世界大戦でソ聯に来て、そのままソ聯に永住したドイツ人が少なからずいた。そうしたドイツ人たちと交流があることを知っていたので、彼に頼んだ。さっそく交換してくれた。新ルーブルは十分の一となった。しかし手数料を出したりして、最後は二〇ルーブルとなった。それでも国営の店にも行ける。そこでは安い品物が手に入るのであまり不自由はなかった。
 それからようやくして日本人の帰国の噂が入ってくるようになってきた。民間人は
「スコール トウキョウダモイ(間もなく日本へ帰れる)」
 と言ってはくれるが、なんとなく気休め的な言葉であることは百も承知だ。ソ聯はいつも秘密主義であり、吾々は信用はしなかった。一般市民は吾々に慰めの言葉として言っていたのだろう。

 私は独歩証明書を持っているため、夜突然に作業に出されることがよくあった。こうなると二十四時間労働だ。とくに苦しかったのは貨車(六〇t車)からの材木卸の作業で、長さ一〇mくらい、太さ四〇〜五〇cmくらいの生杉材を朝までに卸さなければならない。無蓋車の側板が二mくらいあり、半分くらいから下になった頃からが大変。夜明けは近づく、腹はすく、疲れも出る。一晩中働かされ、夜明けには監督が来て
「ダワイビストレ(早く卸せ)」
 とせき立てられる。ヘトヘトになっても全部卸さなければ帰してはくれない。

 話は前後するが、入ソ当時のことである。当時は作業場も毎日のように替えられるので、朝作業場へ着くまでは仕事の内容はわからぬ。
 その日は工場敷地の造成工事で、寒さと空腹と吹雪の中の作業。土は凍っており、スコップでの盛土である。そのスコップの大きいこと。柄の長いこと。太さも五cmくらいもあろうか。吾々には大きすぎて振りまわすだけでフラフラ。効率の悪いことおびただしい。八時間働いても一立方メートルもできない。帰り際に監督がその日の仕事量を%で書いて渡す。それを収容所の入り口で作業係将校に見せると、なんと一八%と書いてあった。作業係りはカンカンに怒って
「プロホイラボート(不良作業)」、「ダワイ」
 とばかりに再びその場から四kmくらい先の農園に連れて行かれ、ここでまた作業(キャベツの収穫)を二時間くらいやらされる。寒さと空腹で帰路の遠いこと。ラーゲリに着いて食事となるが、食事も%である。一〇〇%に比してわずか一八%。定量の五分の一余りの情けなさに声もなくただ寝台に横になる。いくら寝ようと思っても空腹で寝ることができない。栄養失調がだんだんと進んでくるのがわかる。食料が少なくなればノルマも達成できない。悪循環が続く毎日であった。
 そんな時期、Mという兵隊が捕虜ボケというか、気が変になった。毎夜、食堂にいて、全員の食事が終わる頃、皆が捨てた魚の骨を拾っては炊事場の釜の焚き口で焼いて食していた。仏教でいう餓鬼とはこんなのをいうのかと思った。いくら腹がすいてもこんなことはできない気もした。
 ドイツ人と一緒の間、彼らの様子をよく観察して見ると、かなり内職をしているのに気づいた。彼らはいろいろなものをよく見て作り出す。スプーンや指輪や櫛などを作ってはソ聯人に売っている。それがかなりよい収入になっているようだ。日本人の得意な物まねでさっそくにスプーンの製作をした。厚さ三〜五mm、巾五cmくらい長さ三〇cm程度のアルミ板をあちこちの現場から盗んで持ち帰っては、大小さまざまのスプーンを作った。そして付加価値をつけるため箱を作って五本セットで売った。それは三〇〜五〇ルーブルという値で売れ、いい収入になった。さらに指輪も作った。材料は水道蛇口の六角ナットだ。これは真鍮製なので加工も割合に楽にでき、一面に彫り物をしてきれいに磨くと金色に見えるので"ゾロト"(金)と言って売った。ソ聯女性がもっぱら相手であった。彼女らは指輪を欲しがったのでけっこう高く売れた。こんな内職もやって金儲けをした。
 あれこれしているとまた収容所を変えられた。ドイツ人との別れが来た。お互いに虜囚の身であることで互いに人なつく思われた。ドイツ劇団で同じように女形をしていた男が別れに自分の作った指輪を記念にとくれた。彼もいい男だった。

除雪

 シベリアの冬は毎日がマイナス三〇度以下だ。雪は積雪。それを地吹雪によって叩き付けるので起伏がほとんど埋もれ平地となり、トラックが平気で通れる。
 あるとき私たちの中隊一五〇人くらいが鉄道線路の除雪に行かされた。線路沿いを何kmも歩かされ、着いた所は凹地を線路が通っている所で、積雪は二mくらいもあったろうか。延長数百m、ラッセルでの除雪はできない堅い雪であった。二列に並んで雪を左右に線路外へ投げるのだが、はじめは平坦だがだんだんと深くなる。その雪の堅いこと。角に切って投げ上げる。その雪の重いこと。
 昼食なしの八時間労働。夕方になるともう体力も落ち、ヘトヘトになる。そんな時に監督や監視兵がやたらと怒りまくるがどうにも動けない。もう「どうにでもしろ」とひらき直ってスコップを動かしているだけ。皆の顔を見れば鼻の頭が真白く凍って凍傷寸前だ。まつ毛ははく息で上下がくっついて異様な顔をしている。こんな姿を日本の家族に見せたらどう思うだろうかと思った。
 また他日、冬の建築現場で、私は石工として毎日建物の基礎工事をしていた。現場監督はユダヤ系で意地の悪い五〇がらみの体格のいい男だった。よく馬に乗って来た。現場に来ると大声で怒鳴って歩いていた。皆からは嫌われ、この監督の失脚するようなことが起きないかと毎日願っていた。毎日の仕事の出来高を書くのに出来高以下の%しか書かず、自分の成績を上げることばかり考えていたようだ。
 そこで皆で一計をめぐらした。基礎工事は凍土の時にする。そこで基礎の石の間に雪を入れ、春先、凍結が解ける頃に基礎が壊れるようにするのである。基礎の上にはモルタルをならしていかにもよくやったように見せかける。春先に凍結が解ける頃には誰がやったのかわからなくなるだろうから、その時は監督の責任として罰を受け、降格か配置替えになるだろう。そうすれば監督も替わる。そう決まると、全員で協力して監督の目を盗んで雪を入れ石を並べた。いよいよ基礎も終わり、煉瓦積みとなり二階部分まで終わった頃、雪も解けて凍土も徐々に緩んできた。ある朝現場に行って見ると、思ったとおり煉瓦壁に縦に二階部分までキレツが入っている。うまく効果が出たと内心喜んだ。そして何日かが過ぎた。案の定その監督は姿が消えた。配置替えか、悪くすれば監獄行きとなっただろうとの噂があった。

 収容所もすでに変わること五回目。ここは二十二分所。周囲は広い原野だ。作業は前述通り建築現場だ。昼休みの時、出身地の話が出た。その時、島根の出身者がいるとのことであったのでどこの現場かと聞くと同じ現場である。さっそく出会って話して見れば同郷の波佐の出身。しかし早く郷里を出たようなのであまりよく知らない。しかし、こんな所での出会いは本当に身内に出会ったような気分であった。さらに話している間に、安城村(現弥栄村)の出身者もいるというので会って話してみればなんと親類とのこと。しかし、お互いに初対面であり、多く話はしなかった。それが現在の家内の兄であり、なんとも奇遇というほかはない。

大工

 その後、私たちは大工小隊を編成して働いていたので、作業現場を変わったあと郷土出身者とは出会えなかったが、私より五ヶ月前に帰国したとの噂を聞いた。

 私たち大工小隊は三〇名、軍隊当時の建築隊のもので、日本内地では本職の大工だったとのことであった。ほとんどが召集兵である。少し歳の多い兵長がおり、彼は日本では棟梁であった。その人を班長とし大工十六名と吾々のような素人十四名で編成した。
 最初の仕事は炭鉱の従業員宿舎の屋根替え工事であった。炭鉱の責任者の説明を聞いて一〜二日は常傭でやったが、どうも素人の指図では仕事もラチがあかない。それでも炭鉱側ではロシア人大工よりも日本人大工の方が気に入った様子なので、相談して請負の話を持ちかけた。(しかし、ソ聯では請負制度の考え方はないようだ。)それでもなんとか説得して屋根替え(長さ約三〇m、巾約十二mくらいの建物)を六〇〇ルーブルで請け負うことで話が成立した。
 さっそく仕事に取り組んでわずか三〜四日で完了した。炭鉱の責任者の驚きと喜びは大変なものであった。彼はスッカリ吾々を信用し、
「ヤポンスキー、プロトニク、オチニハラショ(日本人の大工は大変よい)」
 との賛辞に賞金、さらには赤旗(これはスタハーノフ運動者の意味、労働の英雄)を贈呈された。収容所に持って帰ると、これまた作業係の将校の機嫌がすっかりよくなり、作業服、靴などを点検してよいものと取替えてくれ、対応もよくなった。
 そして次の建築現場へと。その現場はこの地区の建築事務所(オーストチナヤカントーラ)所管の仕事で炭鉱従業員単身者用の宿舎の建築であった。縦三〇m、横十一mの建物である。基礎は径二〇〜三〇cmくらいの丸太である。その外側を焼いて一・五mくらいに切る。それを一mくらい掘って、そこに立て、その上に桁木をのせてカスガイにて止める。ソ聯の大工は一本桁を作ると広場に並べて組んで見る。吾々から見ればまったくばかげたことをする。これがソ聯流大工なのだ。
 吾々は一本当番号を付して積んでおき、全部を刻み、後で一気に組み立てるので手間は半分で済むが、ソ聯流に言えば、毎日のノルマの確認がむつかしいらしく、仮組みをすることをしつこく要求した。その都度日本式のよさを片言のロシア語で説明し、なんとか納得させた。材料を揃えて下の桁を三、四日で刻み終わって、翌一日で桁木を据え付けて見せて監督を驚かした。それからは吾々の言う通り材料の調達をさせ、仕事を続けた。半月ばかりで素建までやってのけた。監督の喜びようはたとえようもなく、顔中笑顔だった。
 翌日、地区建築事務所のおエラ方がさっそくに来て見る。出てくる言葉は
「ヤポンスキープロトニクオチニハラショ(日本人の大工は大変よい)」
 だった。その翌日には監督が赤旗と賞金数百ルーブルを持って来て、吾々に「スパシーボ(有難う)」の連続だった。一方、ラーゲリでは作業係の将校もご機嫌で「ハラショプロトニク」と大喜びであった。

 この頃には毎日ノルマも一〇〇%以上で、金もくれるようになった。しかし、捕虜には一ヶ月一五〇ルーブル以上の金は持たせなかった。少しでも金を取るためには特定の者の%を高くして、残りを貯金とすることにした。こうして月々少しずつ金をもらってタバコ(マホルカ というタバコで、紙に巻いて吸う)などを買い、また"ペロシキ"(メリケン粉を練って焼いたもの)なども買って食べた。こうして体力も回復したので働くことがそんなに苦痛ではなくなった。
 現場の監督も能率が上がればそれなりの成績を評価され、機嫌もよく和気あいあいのうちに仕事ができた。
こうした労働は、けっしてソ聯のために働くのではなく、自分が生きるためにこうするしか方法がなかった。結果としてはソ聯の復興のためになったのだろう。

パン工場のクラブ建設

 炭鉱労務者宿舎も終わる頃にはラーゲルの作業係もすっかり信頼して、あちこちへ売り込んでは仕事を取ってくる。ソ聯大工のようにゆっくりしていないので注文者はけっこう喜んでいたようだ。その頃には各地の抑留者はどんどん帰還していたが、秘密主義のソ聯なので吾々のところへ情報はまったく流れてこなかった。"ハラショプロトニク"が裏目に出て帰還が遅くなったと思う。

 二十四年も春が過ぎ、カラカンダ地区屈指のパン工場(一日約十五tくらいの黒パンを焼く)で建築をすることになった。横幅三〇m、縦幅五〇mくらいもある大きなクラブ(劇場)を建てることになったのである。パン工場長自ら私たちに向かって、建築についてはまったくの素人で設計も施工もわからないし、また建築のわかる者もいないので、任せるから責任施工でやってくれと注文した。我々日本人から考えると捕虜などにこんなことを任せると何をするかわかったものではない、厳重な監督をするのが普通だろうと思う。そんなところが吾々には不思議に思えた。まったく任せ切りである。
 工場長に案内され現場を見に行き、いよいよ工事にかかる。
 十二時頃になると工場長が来て、昼食に黒パンを一人に約一kgくらいずつ支給するから取りに来るようと言う。また黒パンだけ食べるとひどく胸やけがするので、それを避けるために"ドロヂ"(パンの醗酵菌の入った溶液)を一緒に持って行きなさいと五〜六リットルくらい入るバケツへ一杯、しかも砂糖をたっぷり入れたのをくれる。黒パンを五〜六〇〇gも食べドロヂを飲んだら満腹である。さすがに、胸やけはしなかった。
バケツ一杯のドロヂを全部は飲めない。余りは水筒に入れて日当たりに置くと醗酵して蓋が飛ぶことがよくあった。それを飲むとビールを飲んだようになった。
 また、昼休みにはカンボーイ(警備兵)を買収してはよくバザール(自由市場)へ買い物に行った。その日のカンボーイによっては日中はまったく姿を見せないこともあった。遊びにでも行っているのだろうか。
 バザールでは突然子供が走って来て品物を盗って逃げてしまうことがあった。買った物は手に持っていないと盗られてしまう。周囲をよく見て注意しながら買い物をした。ある日、若い男が路上で上着を脱いで売っている。どうして着ている物を売るのかと聞くと、給料前で金がない。そこで一時しのぎにこれを売って、給料が出たらまた何かを買うという。私たちはこんな考えにはなかなかなれない。
 この仕事場は日本人だけである。あたかも日本で仕事をしているような錯覚を起こすほどだ。パン工場に働いている人達は捕虜といった感じをあまり持っていないのか、吾々に気軽に声を掛けてくる。昼食後の休みには工場の若い女性従業員が外のベンチに腰掛けて合唱などをしている。そんな所へ行くとさっそく寄って来て一緒に歌わないかとさそう。歌っていると今度はダンスを踊らないかと言う。吾々は合唱はできてもダンスなどしたことがないから、適当なことを言って逃げざるを得ない。
 こんなことで親しくなると、パンが焼き上がって釜出しの時間に彼女らのところに行ってパンをくれないかと言うと、焼きたての熱いのを台からわざと落としてキズ物にし、早く持って行けといって二kgくらいの黒パンをくれたものだ。しかし、持ち出すのに大きいし(長さ三〇cm、巾十五cm、厚さ十五cmくらい)、熱いので大変だ。横腹のところへ入れて上衣で覆って出る。腹が熱いこと。それでもよくパンをもらった。
 市民は吾々にはよくしてくれた。日本人の感覚としてはまったく考えられないことだ。今でも為政者に対してはウラミはあるが、一般市民には親しみを感じている。

 だんだんと建築も進んだ。屋根もでき天井も張った。ところが吾々が考えもしなかったことが起きた。ソ聯の家屋は天井にモルタルを塗り、そのうえ天井裏に厚さ一〇cm程度に石炭殻を入れる。そのためかなりの重量となる。吾々はそんなことは考えてもみなかった。どうも天井の中央が下がってくる気配がする。水平なら人間の眼には少し下がって見えるので水平と思っていた。
 毎日その気で見るとやはり天井の中央が下がってくるではないか。そのうちに天井落下の危険がある。これは大変なことだ。万が一、落下でもしたら吾々は懲役行きとなり日本へ帰ることができなくなる。本当に頭の痛い出来事だ。いろいろと皆で相談してもよい考えは出ない。
 万策極まり、工場長に変更(当初の約束は中央に柱を立てない)の交渉をすることにした。この建物は劇場であり、人の集まる場所である。また木造でもある。さらに天井の巾があまりにも広いため何時落下という事態が発生するかわからない。事故があれば大変だ。危険防止のために中央にやはり柱を建てたほうが安全であるということで工場長の諒解を取ったが、工場長はそれでもどんな大きさの柱を建てるかが心配の様子。それについては径一〇cmくらいの鉄パイプの中に砂を詰めてたてる。天井部には桁木を入れて装飾をつける。こんなことでなんとかゴマ化した。
 その前にドイツ人の建築技師の下見をしてもらったら、この材の寸法では天井落下の可能性大であるということであった。こうして何時帰国できるかわからないのでできるだけ安全な方法を取るようになにかにつけて気を配っていた。
 二十四年十月上旬、待ちに待った帰国の報が入った。指折り数えて四年二ヶ月、足かけ五年。長い間の念願がかなった。

 

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