シベリア抑留1

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筆者は混乱の中、訳の分からないままにソ連へと連れ去られた。日本へ帰ることができるという希望を打ち砕かれ、列車は太陽を背に西へ西へと走り続けるのであった。着いたところは「ラーゲリ」であった。

ソ連抑留

 昭和二十年九月十二日、研修所に入った吾々はソ連軍によって一大隊千名単位に分けられ、奉天駅の引込み線へと次々と連行(日本軍の編成等は無視、員数のみの編成)された。その日も暑い日和であった。周囲を見れば見知らぬ兵もたくさんおり、召集兵らしき年齢の者もいた。また、初年兵らしき若い兵もいた。お互いに話もなく、自分のことを思い、それぞれ荷物を持って黙々と列車の場所へと行進する。私もとりあえず着の身着のまま、少量の甘味品(ラクガン)と飯盒に水筒くらいで身軽い状態で列に加わった。なかには召集兵と思われる兵で、大きな荷物を負えるだけ負って汗を流しながら歩く者もいた。
 吾々が唯々諾々とソ聯の指示に従ったのは、「日本へ帰れる」という話を信じたからだ。それはもちろん確実な情報ではない。しかし、ソ聯兵の「トウキョウダモイ」(日本へ帰る)という言葉に一縷の望みをかけた。

 私は司令部にいたので司令部の者と一緒に満鉄の寝台車に乗せられた。車輌には各百名が乗せられた。車輌の出口へ一人ずつマンドリン(小型の自動小銃)を持ったソ聯兵が乗っていた。そして朝夕必ず人員点呼をする。ところがこの兵隊、数を百までなかなか数えられない。一方から一、二、三とかぞえ始めるが途中で動いたらまた初めからやり直す。何時までたっても終わらない。そのうち腹を立てて車輌の外へ全員出して一人ずつ車輌へ入れ、やっと百となり点呼が終わる。
 列車が走行中は暇なので、日本兵の腕時計や万年筆をあさり、見つけると取り上げる。時計は必ず耳にあて音を確かめ、音のしないのは取らない。両腕に二〜三個ずつは持っている。なかには翌日になるとネジが切れて音がしないと持ってきて返すのもいた。当時の時計はネジ巻なので一日もすれば止まるのは当然。まったく程度の低さには驚いた。
 ソ聯邦時代は十数ヶ国の聯邦制なので教育も程度が低い。また、統制経済の為、生活必需品以外はほとんどなく、時計などは国民のほとんどが持っていなかった。万年筆もなく、すべて付けペンだった。

 私たちの車輌にソ聯軍の輸送指揮官(若い中尉)がよく出入りした。その指揮官に吾々を何処へ連れて行くのかと問うと、哈尓浜までの命令は受けているがそれから先はわからないと言う。日本人にはこんな小出しの命令はどうも理解できない。まったく秘密主義というかあきれたものだ。
 満洲輸送中は米はなく、わずかに配給してくれるのは粟、それも皮付きである。粟飯は知っていたが、炊き方はわからなかった。ある小さな駅で停車した。炊飯だ。さっそくそこらの野原へ水溜りを探しに行き、燃料も枯草を拾って飯盒炊飯をする。もちろん水加減もわからない。最初は硬い粟飯だ。残りにまた水を入れて炊き、二〜三回でようやく粟粥となってくる。
 こんな状況が数日続いた九月下旬、ある小さな駅で停車した。駅舎附近を見ると、五〜六歳の男の子と小さな子を背にした母親がいつ乗れるかわからない汽車を待っている姿が目に入った(おそらく開拓団の者と思われる)。見れば男の子は素足に着物姿である。北満の九月下旬は、朝夕ともなればもう零度以下になる。そんな中で行くあてもなく路頭に迷っている。その親子を見て同胞として、いや軍隊として守るべきことができないいらだたしさに情けなく涙する思いだった。フト気付いて自分の持っていた甘味品(ラクガン)を雑嚢から出して子供の手に渡してやった。無事に故郷へ帰れることを祈る。母親らしき夫人は涙を流して喜んだ。
 また孫呉 近くの小さな駅に停車。そこでは二〜三時間の余裕があった。炊事洗濯等をするため周りの野原に水を求めて歩き回った。やっと草原の中に水溜りを見つけた。皆が我先にと集まってくる。生い茂る夏草を分けてできるだけきれいな水をと思って入ったが、よく見るとボーフラが浮いている。そこで一計、水面を叩くとボーフラが沈む。すかさず水を汲む。その水で粟飯を炊いた。
 周りをよく見ると洗濯する者、用便をする者、さまざまである。さらに先の方を見ればなんと死体が浮いているではないか。よく見れば二〜三体、それも日本兵である。惨めな姿だ。この附近の戦闘がかなり激しかったものと思われる。どうすることもできずにその場を去る外はなかった。
 九月も終わる頃、ようやく黒河 の駅についた。そして収容所らしきところへ入った。ここに三〜四日滞在する。その間、ソ聯軍の命令で毎日略奪品の船積に使役された。たまたま私たちは麻袋に入った麦を船に積まされた。一袋約一〇〇kgあり、これを担がされて、アユミイタ歩板の上を歩いて船に積む。馴れないことと重いのにあえぐ有様。ソ聯兵の罵声に腹は立つやら情ないやら、こんな奴らにとの思いだった。

入ソ

 十月に入って黒河から対岸の街、ブラゴエシチエンスク に渡らされた。今度は幕舎に入れられた。ここでは少量ながらソ聯軍より食事の支給が始まった。ここに三〜四日いたが、湯茶や水がないので近くの民家で水を飲ませてくれるように頼んだ。出て来た婦人は
「ワダーニエット(水はない)、裏の畑のキャベツを食べろ」
 と言われどういうことかと戸惑った。後でその意味がわかった。彼らは水を買っているのである。日本人の感覚では水はタダという考え方があるが、それがまちがっていることに気がついた。
 ソ聯領に入っていよいよ完全に武装解除が始まった。今まで持っていた軍刀や家族の衣類の入った行李等一切没収された。軍刀の中にはかなりよいものもあるようだった。
 また行李の中身は女物の衣類もあり一寸腹立たしい思いもした。日本軍には昔から下士官以上には必ず当番兵というのがついていた。下士官には営内居住と営外居住がいたが、吾々の原隊では下士官はみな営内居住であった。また将校もみな営内にいた。独身者が多くいたからだった。その当番兵が一生懸命汗水を流して運んだ物がこんな物とは?
 今まで日本に帰れると思っていたのに、この様子から日本へは帰れないかもしれないという気がした。
全部の物を品別に分けて集積し、それを各人に平等に分配した(下士官以下)。下着、服、外套、靴、飯盒、水筒など一つずつである。今まで日本に帰るのだとたくさんの衣類等を持ってきた連中はアッケにとられていた。こうなると日本へ帰る(トウキョウダモイ)はどうやら嘘ではないかと不安にとらわれ始め、そこここでその話でもちきりだ。
 この三〜四日の間に入浴もした。入浴といっても日本式でなく、金だらいに二〇リットル程度の湯をもらい、それで身体を洗い流す行水といった程度のものであった。衣類は消毒(熱減菌)、それも野戦用トラックの施設である。第一次世界大戦の時、戦場に発疹チフスが発生。一〇万人近い犠牲者が出た例があり、ソ聯はそのことでたいへん神経を使っていたようで、消毒用野戦用トラックをたくさん持っていた。水洗するのでなく熱消毒でシラミ、ノミなどを殺す目的のものであった。
 そうこうしている間に、一見家畜用貨車と思われるような貨車が駅構内の引込み線に入って来た。
 中央の扉を開けると中は左右を二段に仕切られ、そこに乾草が敷いてある。そんな一車(三〇t貨車と思われる)に七〇名ずつ押し込まれた。こうなるともはや牛馬なみである。扉は外から施錠され、駅に着くまで闇の中だ。
 十月上旬ともなればここら辺りは日中でも零下の温度になる。冷え込んできた夕刻、いよいよブラゴエシチエンスクを後に列車は動き出した。日本へ帰るまでは我慢しなければということであったが、行く先もわからずただ相手の為すがままでは牛馬と同じである。その夜は「日本へ帰る」と言う者、「いや帰れない」と言う者でしばし闇の中の問答が続いた。翌朝にはシベリア本線に出るだろう。太陽が列車の進行方向に見えれば日本へ帰れる。逆に太陽が列車の進行方向と反対に見えれば抑留生活が待っている。それが大方の結論であった。
 司令部で一緒にいたF中尉(招集将校、元大連女学校の教師)が皆に、日露戦争の時、ロシア軍捕虜を日本(四国善通寺)に三年間抑留した。だから今度は最少でも三年くらいは抑留されるだろう。長ければ数年になるかもしれないと語った。一方、若い見習い士官上がりのT少尉らは日本へ帰れると言い張っていた。私はその時F中尉の話が当たりそうな気がしてならなかった。いやスターリンは「日露戦争の報復だ」とも言った。日本へ帰れるということも七月二十六日に出されたポツダム宣言の第九項に「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」とあり、これに一縷の望みを託した言であった。
 しかし、日本もソ聯も国際法への理解は浅く、捕虜条約(一九二九年のジュネーブ条約)への認識が両軍とも似たり寄ったり。つまり捕虜観が古かったのだ。日ソ両国共に人間を人間と思っておらず、特に戦時下では人権を認めないといった立場を取っていた。日本には「生きて虜囚の辱めを受けず(捕虜は生きて帰るな)」という戦陣訓もあったから、安易な方法で軍隊の始末を考えたのだろう。捕虜条約、国際法を守る気があったら、シベリア抑留は生まれなかったにちがいない。
 ともあれ翌朝の夜明けが待遠い。その夜は長い長い夜だった。
やっと白々と夜明けが来た。上段の者が三〇cm程の小窓から見た。どうやら太陽は後方に見えるという。
かすかな帰国の望みは断たれたようだ。その時の気持ちは筆舌につくせぬ。虚脱感が襲った。
 それから二〇数日、列車は西へ西へと走り続けた。車内では来る日も来る日も沈黙の日々に明け暮れた。当時は地理的感覚もあまりなく、何処へ行くかもわからず、またどんな状況が待ち受けているのかもわからない。不安の毎日だった。
 十一月に入った。寒さは一段と厳しくなってきた。その頃になると寒さ、空腹の二重苦の日々が続く。十一月三日、どうやら目的地に着いた様子である。全員列車から降りるよう命令された。そこは引込み線のような場所だった。全員が並べられ人員点呼を受ける。

ラーゲリ

 ソ聯兵の指示で並ぶのは必ず五人ずつ(日本は四名並ぶ)で一寸奇異に感じた。警備兵は掛け算はできない。加算一点張りなのである。五人ずつなら加算は簡単だ。なるほどそれで五名ずつかと納得した。
 点呼も終わり、前後左右に着剣した兵がついて、「ダワイ、ダワイ」の掛け声でラーゲリ へと向かった。途中一団の囚人らしき者たちとすれちがった。収容所まで約八kmの行程で、町はずれにあった。着いてみると収容所は半地下式の建物で土壁、床は板張り、寝台は二段式で板が敷いてありその上に藁布団が置いてある。暖房はと見れば中央に煉瓦で作ったペーチカが一基あるだけだ。こんな所へ二〇〇名くらい入れられた。
 部屋の中に仕切はいっさいない。一目で中が見える仕組みだ。寝台の数が少ない。二人分の所へ三名宛て寝るといったものだ。
 このラーゲリに入ったのが十一月三日、シベリアの地は日中でもマイナス二〇度以下である。その夜は寒い晩であった。ペーチカなどはほんの申し訳程度のものでほとんど役に立っていない。暖房はないも同然である。
いきおい防寒具は舎内でも着ており、夜はそのままで寝る。寝台は全部くっつけて二人のところへ三人が交差して寝る。防寒具をつけているので尚更狭い。窮屈さと寒さで眠ることもできない。トイレにでも行ったら寝る場所がなくなる。
 私のとなりに召集兵で四〇歳過ぎの兵が一番端にいたいといいそこへ寝た。朝になり、壁の冷たさが身体に伝わって十回ばかりもトイレに行き、一睡もできなかったので、私に場所をかわってくれるように言う。そこでさっそくかわって寝ることにした。朝起きてみると、壁には真っ白く霜がついており、防寒具の表面も真っ白い。まるで野宿同然であった。
 収容所の近くに湖があった。到着のときは水が見えたのに翌朝は真っ白く凍っていた。さすがシベリアは寒いところと思った。
 十一月七日はソ聯の革命記念日で仕事には出ないが、持物検査があった。全員室外へ出され、ナイフ、ハサミ、針など少しでも危険と思われるものはいっさい取り上げられた。彼らの用心深さには驚いた。この間、待つこと数時間。マイナス三十度近い外で何時終わるともわからず、長い時間であった。
 いよいよ野外作業に出されることになった。もう真冬、日中でもマイナス三十度以下の日が多くなり、また吹雪も激しくなってきた。雪は少ないが地吹雪で風も強く、歩行も難儀するくらいだ。

 ここは抑留地区第九九地区一九分所(カザフ共和国カラカンダ地区 )だ。
 収容者一〇〇〇人。軍隊当時の編成は完全になく、頭数だけで収容されたので顔見知りの者はほとんどいなかった。収容所のなかでは将校と兵(下士官を含む)は別々の棟に収容された。待遇もまったく別である。食事も将校と兵とは別に作られていた。その為に将校と兵の食事がどれほどちがうか知る由もなかった。吾々は粟粥を飯盒の蓋に八分目と塩のスープを与えられた。塩スープの中味はほとんどない。それが飯盒に半分くらい。食事が終わって一時間もするともう腹はすいてくる。
 一日のパン(黒パン)三五〇g。それを朝三分の一、昼三分の一、晩三分の一、といった具合に食べるので、何時も腹はすいていた。時には朝粟粥とスープ、昼はなし、夜にやっとパンをもらうこともあった。
 ソ聯での糧秣定量表(日当たり)を見よう。

実際には黒パン以外は量がほとんど不足していた(下士官、兵の食料)。
黒パン 三五〇g
雑穀 一五〇g(燕麦と思われるものであった)
肉 五〇g(ほとんど羊の内臓の塩漬)
魚 一〇〇g(ほとんどニシンの干物)
野菜 八〇〇g(馬鈴薯、トマト、キャベツの漬物)
砂糖 一八g(一ヶ月に一回、配給量は不明)
マッチ 一・五g(一ヶ月一回、量不明)
石鹸 (入浴時に厚さ一cm、巾三cm、長さ五cm程度)
茶 三g(クコの実を煎じて一日水筒一杯程度)
 収容所内にはやはり軍隊の階級や年次が暗黙のうちにあり、下級者は常に不利な状況におかれていた。
肉体的には寒さと食糧不足による栄養不足、また精神的には希望を失い、皆うつろな眼をしていた。
 毎朝七時に集合。一班十五〜三十名くらい(作業場によって人員は配置された)が点呼を受けて収容所を出る。前後左右に銃剣付のカンボーイ(見張兵) がついて割当の作業場へと向かう。当初、私たちが働かされたのは、収容所から一時間ばかり歩いた小高い丘であった。そこは一面凍った風の強い場所だった。
 現場監督(ナーナヤニック)から一人ひとりに鶴嘴と金テコを渡された。そして丘の上に一列に並ばされ、監督が手マネで穴を掘れというような素振をする。コチコチに凍っているので鶴嘴などはまったく受けつけない。目的がわからないのだから段取りもなにもない。穴を掘れと言われたと思い込んでいる吾々は、穴を掘ったら吾々は銃殺され、この穴に埋められるのではないか、と思った。これこそまさに自分の墓穴を掘ることにほかならない、それなら一日でも長生きするために穴掘りには少しでも長く時間をかけよう。一日中寒さの中に立って金テコを立てたまま掘ることをしなかった。監督は二〜三時間おきに巡ってくる。
「ダワイ、ラボータ(仕事をせよ)!」
 顔を赤鬼のようにして怒りちらして行く。その時だけ金テコを上下して掘る素振をする。こんなことが三日くらい続いた。
 いくらお人好しのソ聯人でもいよいよ頭にきたのか、あるいは見張兵に仕事をするように頼んだのか、今度は見張兵が来て悪口雑言をわめきちらす。最後に「ダワイダワイ!」。知らぬ振りでもすれば銃でなぐる。それでも穴掘りは遅々として進まない。五日目くらいにやっと日本人の通訳らしき兵が来て、この作業は穴掘りではなく、表土を取りのぞき下の岩石を採るのが目的で、そのうえ岩石は建築の礎石に使う石であることがようやくわかった。それまで昼食抜きの八時間、寒さと吹雪の中でよくも立っていたものだと思う。
 日時がたつにつれていろいろとわかってくる。ノルマというものがあることもわかった。この作業は"カーメニカリエル"(石の採取)の仕事で、一日一立方メートル採取がノルマという。毎日夕方には監督が一日の作業量を書いてくれる。いくら書いたかは不明だ。
 ソ聯では「働かざるもの食うべからず」。一〇〇%の仕事をすれば食事も一〇〇%。一〇%なら食事も一〇%。吾々の食事はどうも少ない。やはり%を少なく書いているのだろう。少しずつヒガミも出てくる。といって仕事場を勝手にかわることはできない。一日一立方メートルの採石は大変な重労働だ。一枚岩に矢を打ち込んで壊して取る。火薬を使えば大量に取れるだろう。だがそんなものはいっさい使うことはできない。
 そのうちに石を一立方メートルずつ積めという。そうなるとどう積めば少しでも多く見せられるか気を配るようになった。周囲に気を配りながら、いかに外部からわからないよう空積みするか考えながら、素早く積むことを研究した。
 しかし、吹きさらしの丘の上での作業、毎日が寒さと空腹の連続であり、だんだんと体力がおとろえると同時にノルマも下がる。連動して食事の量も落ちる。作業場へ往復(約七〜八km)する時の姿は番犬に追われる家畜の群れのようになっていた。ノロノロと歩く隊伍が乱れると警戒兵が口やかましく
「ピヤーチ、ピヤーチ(五列に並べ)」
 と怒る。彼等は常に着剣し、実弾をこめているので引き金を引けば弾丸は出る。あるところでは一人離れて排便をしようとして射殺されたものもいた。
 "ノロノロ"歩きがやがて"ヨタヨタ"となり、ソ聯兵は"イライラ"となり"ダワイ、ダワイ"の連呼だ。地面は凍り、その上に薄く雪が覆いよく滑る。そのため"ヨチヨチ"歩きとなる。加えて靴も凍って氷の靴のようになっており、一人でも転ぶと五人並んで倒れる。なかなか早く起きられずにいると警戒兵が銃でなぐる。足で蹴り上げる。捕虜とはこんなにも惨めなものか、動物と同じだなと思うが、今の立場は何をされても我慢するしかない。
 こうして日が経つにつれて仕事の内容もわかってくる。成績も少しはよくなり、食事も少し改善されるが一向に体力がつかない。

石工

 こんな日が続いて半年、一九四六年の三月、私は他のラーゲリ(第七ラーゲリ)へ移動させられた。またしても顔見知りは一人もいない。まったくお互いに知らぬ者同士である。ここで二五〜六名くらいの班が編成された。今にして思えばソ聯という国は人権どころか人間を人間とも思っていなかった。単なる労働力としか考えず使い捨て品としていたのだろう。
 ともあれ収容所を変われば当然作業場も変わる。今度は建築現場へ行くことになった。その現場の監督(ナチヤニク)は五〇からみのおとなしい男だ。またその助手(デシヤットニク)は少し気の強そうな男だ。両人共に人はいいようだ。
 最初は基礎の穴掘りから始まった。四月では未だ夜間は零下三〇度以下となり土も凍る。日中には表面が融けて泥んこになり、泥んことの戦いでもある。二mくらいの穴掘りが終わると、その中に以前に私たちが採取した石を敷設して石灰と砂を混ぜたモルタルを入れて積み上げてゆく。それが建物の基礎になる。
 毎日穴掘りや石運びは重労働だ。その頃には大分ロシア語も覚えてロシア人との話も単語の羅列ながら通ずる。その頃、ポーランド系の男で石工のクーシェリとよく話をした。ここらあたりはいろいろな人種がたくさんいて、お互いにロシア語があまりよく話せない者が多い。互いに片言のロシア語でしゃべるせいかかえって話はよく通じた。

 ある日、石工のクーシェリがお前は話も通ずるから弟子にしてやると言い出した。さっそく、監督に話してくれて弟子入りとなった。
 それからは玄能一本をもらって毎日彼のすることを見て習った。二週間くらいで、よくできるからもう卒業ということになった。それからはその現場で石工として働いた。今までのような穴掘りや石運びのような仕事とは違い、格段に楽になった。なにも何時までもここに住むわけではないから、少しでも楽な仕事をと思っていたのでうまくいったと喜んだ。
 基礎の石並べも終わって地上へ出ると今度は石積みだ。今までこんな仕事などはしたこともない。石工とはいってもにわか石工だ。こうなればクーシェリの仕事ぶりを見てまねをするしかない。一つひとつの工程を覚えながら進んだ。石積みが終わり、ついでブロック積みとなった。この仕事も初めてだ。
ブロックは二〇cm角の長さ四〇cmのものでかなり重い(約三〇kg)。石炭灰をセメントで固めたものである。このブロックを壁巾八〇cmに積み上げていく。こんな仕事だ。素手でブロックを持って積むと一日にして手の皮がむける。これは大変。手袋を作るのが大仕事であった。
 またブロックが終われば、今度は煉瓦積みである。これも初めてである。
あれこれと教えてくれて、建築の一通りの工程を終わる頃にはすっかり一人前の石工(カーメニチク)として扱ってくれるようになった。

 ソ聯では職人(技術者)は一般より待遇がよくて、収容所でも独歩証明書(プロプスカ)を交付して、毎日単独で仕事場へ往復できるようになった。こうなると何かと好都合のことがある。自由市場(バザール)も一人で行けるようになったので品物の売買もよくやった。また皆から頼まれて売る。石鹸やマッチ、砂糖などは一ヶ月貯めたものを民家へ行って売る。少しずつピンはねして金儲けをする。
 大きい物では毛布なども売った。そんな時には一〇〜二〇ルーブルくらいはピンはねする。高く売るのは自分の腕次第。そのためには売買のコツを覚えてうまくやるだけ。また夕方五時に仕事を終えて帰る途中で、民家に寄ってブロック積みなどを一時間くらいすると黒パン一kgをもらえる。帰って収容所内で四個くらいに切って、一個一〇ルーブルくらいで売る。毎日何かを売買する。けっこう面白い。吾々は仕事もノルマ、食事もノルマであるが、石工のノルマは充分にできる程度のものであった。
 ソ聯の一般民衆は本当に人種差別もしないし、我々捕虜に対しても同国人と同じように話しもする。収容所の職員とはまったく異なった。
 吾々に捕虜(ワィナプレンニー)と言う人は一人もいなかった。子供らはみな叔父さん(ジャジャー)と呼んだ。収容所の職員以外は誰もが気さくであった。民家の入り口でドアーを叩くと、中から「ダー(はい)」と言う返事が返ってくる。「ドラスチ(今日は)」または「モージノ(開けてもいいですか)」と言うと、「パジャルター(どうぞ)」と気持ちよく入れてくれる。そして必ず身内のことを聞く。「パパ、ママ、イエフ(お父さん、お母さんはいるか)」また「ジエシナイエス(妻はいるか)」と言う。収容所の食事はどうかなどとも聞く。さらに婦人がそこにある椅子を出して
「パジャルスタサジース(どうぞおかけなさい)」
 と言う。多民族国家であるのかまったく偏見はない。それとも日本人ということで物珍しさもあったのか? ともかく一般市民には今でも憎しみはない。
 ある日収容所で一ヶ月の石鹸の配給があり、二〇個くらい持って縫製工場へ行った。日本では洗濯石鹸である(ここでは入浴用の石鹸)。この工場には三〇人くらい女ばかりがいた。先ず入ると
「メラーイエス(石鹸がある)」
 と言う。一〇人くらいまわりを囲って
「スコリコルーブル(値段はいくらか)」
 と詰め寄ってくる。初めは少し高めに二五ルーブルと答える。高い高いとジェスチャまじりで値切ってくる。こちらも大分馴れて石鹸をしまう素振をすると、
「パ、ストエ(待てまて)」
 とくる。そこで一〜二ルーブル値を上げて買うと言う。それでもまだ売るとは言わない。しかしこっちも何時までも交渉している時間はないので二一〜二二ルーブルくらいで売る。収容所に帰ってからは二〇ルーブルしか売れないと一〜二ルーブルのピンはね。一回に二〇ルーブルくらいは儲かる。
 こんなことでタバコも自由に買える。またパンなども民家の仕事をすることで腹一杯食べられる。皆より少しはよい生活ができた。それも一人で作業に出られ、また要領よく食料や金儲けができたからである。この頃いかにして生き抜くか考えたものだ。

左官

 以前建築現場に行っている頃、石工と同様に左官を習った。左官は夏は日陰で、冬は暖房の入った室内で壁塗り。一年中戸外での作業はない。じつに楽だ。
 ソ聯では左官はほとんど女がやっており、私もマルーシャという四十歳くらいの女左官について習った。日本式とはまったく異なり、少し器用な者なら誰にもできる。ソ聯式左官は"マセローク"(ハート型のコテ)でモルタルを叩き付け、それを"ポートチョルカ"(長さ六〇cmくらい、巾一二〜一三cmくらいの木ゴテ)で下から上へなで上げ平らにし、それをまた小さい木ゴテですって仕上げる。モルタルを叩き付けるのに一寸コツが要るくらいである。こうして二週間くらいで試験され、マルーシャ師匠から「ハラショ(よろしい)」と言われ卒業した。
 五時に仕事を終え、帰りに民家へ立ち寄ったら何の仕事をしているのか聞かれたので、"シカトール"(左官)というと、
「家のカマドを作ってくれないか」
 と頼まれた。OKして毎日帰りに一時間くらいずつ仕事をして三日くらいで仕上げた。
 仕上がったその日、彼は
「金はない。パンでどうか」
 と言う。では「いくら呉れるか」と聞くと一kgだという。それは少ない。交渉したが、どうもくれそうにない。仕方なく手を打った。それを持って帰り、四個に切って一個一〇ルーブルで売れば四〇ルーブルになる。当時一日のノルマ一〇〇%で一一ルーブルだから、よい儲けになると思い直した。
 後日そのカマドがよく燃えないと言っていた。やはり「習わぬお経は読めぬ」というが、素人では駄目だなと思ったものだ。

 

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