タイヤパンク事件はいろいろ体験しましたが、その中からピックアップしてお話しましょう。
上海のような都市ではほとんどお目にかからなくなりましたが、つい5、6年ほど以前には軽自動車のライトバンを使ったタクシーがけっこう街を走っておりました。運転手のほかに、何故かいつも助手席に車掌然としてもう一人乗っているのが普通でした。ライトバンですから後部座席に少なくとも二人、たいてい三人は座れます。しかし、そこは中国のこと、後部貨物室に腰掛けのような椅子を二つ三つ放り込んでおけば、さらに二人から三人は詰め込むことができます。さて、そんなタクシーに乗ったときのこと。
ひとこと言っておきますが、このタクシー、じつは正規のタクシーではありません。いわゆる「白タク」というやつですな。こういうのが以前はかなり走っていましたが、最近はあまり見かけません。オートバイの「白タク」はいまでも多いですが…。
いわゆるワンボックスタイプの車を、中国では面包車といいます。「面包」というのは食パンのことですね。つまり車の形が食パンに似ているのでこう呼ばれているわけです。軽自動車といえどもやはり面包車と呼ばれます。
その日、わたしたちは杭州から列車で上海に帰ってきたところでした。夜もかなり更け、午後九時前ごろだったでしょうか。わたしたちはすっかりくたびれて、一刻も早く家に帰って休みたかったのです。しかし、その当時はタクシー事情が悪く、駅前のタクシー乗り場でいくら待ってもなかなか車が来そうにありません。そこで白タクを探したというわけです。わたしたち一行は6人でした。タクシー二台に分乗するかわりに、面包車をつかまえたのです。
軽のライトバンにはさきほどお話したように、運転手と助手が乗っておりました。若者です。彼らは急いでわたしたちを車内に押し入れました。なにしろこんなところを警官に見つかると罰金どころか車まで取り上げられてしまうかもしれません。彼らがあまりにも急がせるので、わたしたちは転がり込むように車内に乗り込みました。わたしは一行の中では若い方だったので、とうぜんのように最後部の貨物室内の椅子に座りました。椅子が小さすぎて、膝小僧を抱え込むようにして座らなければなりません。まるで雪隠詰のようです。
もうお分かりでしょうが、いまこの車には大人が八人乗っているのです。500kg近い重量が小さな軽自動車に乗っかっているのです。
動き始めた車はガタごとと激しく振動します。これだけの重量が乗っていると、後輪の板バネなど用をなしません。それ以前にそうとうヘタッテいたのでしょう。まるで大八車に乗っているようでした。突然、そのショックがさらにきつくなりました。がたがたと激しい振動に加えて車が横揺れするのです。船でいうとヨーイングとでも言うのでしょうか。パンク独特のあのふにゃふにゃした動き、モンローウォークのような走りです。
前の運転手の兄ちゃんが何か言いました。もちろん当時わたしは上海語がまったくわかりませんでしたから、彼が何を言ったかなどわかりません。しかし、パンクだと告げたのだろうと想像しました。人々の口からいっせいにため息が洩れました。
わたしたちは全員車を降りました。運転手と助手の二人の青年がパンクしたタイヤを交換しはじめます。左側後輪が見事にぺちゃんこになっていました。時計の針はすでに九時半を回っています。幹線道路を走る車の数もめっきり少なくなっています。雲ひとつない夜空に満月間際の月がこうこうと明るい光を放っています。夜が更けるにしたがって空気は凛と冷え、清涼な気分がします。一方目を転じれば、二人の運転手は必死の思いでタイヤ交換をしています。日本から遠く離れた上海でわたしはいまパンク修理の現場たたずんでいる。こんな経験をしようとは思いもしなかった。日本はどの方向だろうか。夜更けの上海でわたしは一人物思いにふけったことでありました。